[40年のサラリーマン生活]

昭和27年(1952年)アマチュア無線局を開設した円間さんのハム生活は、既に50年を超えている。この間、電電公社・NTTでの勤務は、福井、鈴鹿、大野木、福井、金沢、富山、金沢、東京、輪島、金沢と変わった。東京での勤務は、渋谷無線中継所であったが、ここでも貴重な勉強をすることになった。

昭和40年代の始めころから大手企業や大規模組織が、コンピューター導入に走り出していた。電電公社も増え始めるであろうデータ伝送、コンピューターセンターの保守要員の育成に乗り出した。円間さんは昭和46年(1971年)育成要員の1人に選ばれ、日立製作所秦野工場に派遣された。

「当時の通信機の制御装置は機械的なリレーで占められていたので、半導体を使った論理回路には当初戸惑ったが、慣れてくると図面も簡素で理解も早くなった」と円間さんは、20年以上も前を懐かしむ。コンピューター本体、周辺装置、通信装置までのセンター装置一式の特訓を受けた。「なぜ、無線技術者がここまで勉強させられるのかと思った」という円間さんであるが、その後のテレビ中継線自動切替装置や移動無線基地局の保守には大いに役立った。

円間さんがNTTの定年を2年残して退職したのは平成元年(1989年)58歳の時であった。約40年間の勤務では転勤があったし、毎日の勤務では残業もある。好きなようにキーをたたくこともマイクを握ることも出来たわけではなかった。「いつか自由にアマチュア無線が出来るようになるだろう」と、将来に夢をつなぎながらのサラリーマン生活であった。それでも、長かった電電公社・NTT時代には「いろいろなものに挑戦し、とくにシステムや機器の複合故障を解決することは楽しかった」という。

平成10年、JARL金沢クラブの50周年の催しが、原JARL会長(前列左から4人目)を迎えて開かれた。前列左から3人目が円間さん

[無線クラブ活動]

在職時代にはJARL活動には時間を避けなかったが、平成11年(1999年)まで金沢市にあったJARL北陸事務局には時々顔を出してはいた。職場や地域の無線クラブに関係しだしたのは、ようやく勤務に余裕が生まれた昭和60年(1985年)以降からである。「私は個人的には仲間は多いが、もともと“群れる”ことが好きではなかった。しかし、AAというコールサインの立場では頼まれたら断れない場合も少なくなかった」と円間さんは振り返る。

電信電話公社が民営化された昭和60年(1985年)4月、北陸に「NTT北陸アマチュア無線クラブ」が発足した。クラブ局のコールサインは、NTTにちなんだJA9ZNTと、INSにちなんだJA9ZNSとなり、円間さんが代表幹事となった。翌年5月、円間さんが発起人となりこのクラブが主催する「電信電話コンテスト」が創設された。毎年、電信電話記念日である10月23日に行われるもので、円間さんは「NTT発足を記念して、全国的なコンテストをねらった」と、創設の目的を説明する。

昭和63年(1988年)1月には「北陸DXミーティング」、平成10年(1998年)3月には「北陸OM会」がそれぞれ発足し、円間さんはともに創設発起人となっている。そのほか、金沢大学クラブとの交流も大事にしている。近くに住む学生もしばしば円間さんの自宅を訪ねたりしている。

「第1回北陸DXerの集い」での記念写真

[今後のアマチュア無線]

日本のハム人口は減少を続けている。どうしたらハムの数を増やせるのか。また、低いJARLへの加入率をあげるためにはどうすべきか、などアマチュア無線の今後を心配する関係者は多い。円間さんはアマチュア無線のあり方について「人為的にならず、自然に任せたらどうか」という考えをもつ。「無線が好きな人は自然にアマチュア無線の世界に入ってくる。成り行きでも一定のレベルに育っていく」という。

ただし、多くのOMが指摘する「自作の楽しさ」には同調する。「何か一つは自分で作ることに挑戦すると、ハムのおもしろさが倍増する」からである。円間さん自身はアンテナの自作にこだわってきた。「自作といっても残っている分野はアンテナかブースター(リニア)アンプくらいであるが、作ることが勉強となる」と強調する。

[社会への貢献]

また、円間さんは「アマチュア無線は趣味とはいえ、社会的な貢献が必要ではないか」と指摘する。その一例として、電灯線に信号を重畳させるPLC(電力線搬送)が認可されることを心配する。PLCは再び、実用化に向っての実験が始まりつつあるため、当然のことながら、JARLは、アマチュア無線に妨害の恐れがある、と絶対反対の立場である。

円間さんは「アマチュア無線は趣味、それに対してPLCは国民に廉価でインフラを提供することになる、という意見からPLCが推進される恐れがある。それに対抗するためにはアマチュア無線の社会貢献を進めることが大切」と、強調する。そのための一つとして「米国のアマチュア無線が活躍しているCD(民間防衛隊)のような組織を設けたら」と提案する。

もう一つは「太平洋岸の大地震発生の予知への貢献」である。すでに、50MHz付近を観測していくつかの公私のグループがある。「50MHzならばアンテナ、受信機をもつハムは多く、アマチュアには最適な貢献になる。そのための組織づくりがまず必要」と、円間さんはいう。

NTT北陸アマチュア無線クラブのメンバー

[挑戦し続ける円間さん]

今後、円間さんは何に挑戦しようとしているのか。大きくは3つあるという。一つはさらにDXCCのエンティティ拡大や、珍局探しである。もう一つは、次ぎのアンテナづくりである。今年(2004年)の夏までに、7MHz、10MHzのクワッドアンテナを立ち上げるために、既に部材を揃えている。

そして、最後の一つはリモート局への挑戦である。たびたび触れたように円間さんが電波を発射するのは、自宅から離れた市の郊外に立つアンテナと局舎の場所からである。そこに設備されている機器類を自宅からコントロールしながら交信する計画である。既に準備を整えており、今年の早い時期に実行できそうだ。円間さんは今72歳。まだまだ、未知の分野への挑戦がつづく。

この連載を綴じるに当たって、円間さんは「仕事での無線通信と趣味のアマチュア無線を50年以上も続けてこれたのは、OMの方々のご指導、ご援助、そして連載にご協力いただいた皆さんであり、感謝します」と、強調している。