[2アマを取得]

1953年10月、高校2年の柳原さんは、金沢市で行われた第2級アマチュア無線技士の国家試験の受験に行く。当時はSL列車で速度も遅く、自宅から金沢まで、福井経由で3時間近くかかったという。実はそのまえに小手調べとして同年8月に、柳原さんは電話級通信士の国家試験を受験し合格していた。アマチュア無線の資格よりプロの資格の方を先に取得していたのである。

この電話級通信士の合格により自信をもって2アマの国試に挑み、問題なく合格した。同じ試験会場には、JA9CE豊島さんがいたことを覚えている。「参考書は先輩からもらいましたが、あまり勉強したという記憶はありません。それでも法規は参考書を読んで覚えたと思います。」と柳原さんは話す。

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2アマ国試の合格通知。

2アマを取得した柳原さんは、すぐに開局準備にとりかかる。最初に自作した送信機は、「無線と実験」誌に掲載されたJA1AD斎藤さんの記事を手本にし、42パラレルでハイシング変調した、標準的な807シングル機だった。その後は、「アマチュア無線をやるには非常によい環境でした」と話すように、家のラジオ屋は、学校内の放送機器も取り扱っており、定期メンテナンスなどで交換した中古の真空管807はいくらでもあった。そのため、製作実験を繰り返し、いつしか変調も807PP、ファイナルも807パラレルという具合になっていたと話す。

[受信機を作る]

受信機は高周波増幅付きの5球スーパーにBFOを付加した。それ以前のBCLの時代には、0V1、1V1などを作って放送を受信していたが、アマチュア無線の免許を受けるのにそれでは具合が悪いと考え、高1中2のスーパーを作った。受信用の真空管もいくらでもあったが、受信機に最適なバリコンだけはなかった。ラジオに付いている単連のバリコンはいくらでもあったが、ファインチューニングを必要とするアマチュア無線の受信機では使い物にならなかった。4連バリコンが欲しかったが、さすがに家の商売では使わないのでなかった。

柳原さんは、アルプス電気が発売していた4連バリコンがどうしても欲しくて、親にねだって買ってもらった。その頃のサラリーマン初任給が3000円ぐらいの時代に、1500円もするバリコンであった。このバリコンには、当初バーニアダイヤルを付けて使ったが、その後、福井クラブの先輩から地一号受信機のダイヤルギアを譲ってもらい、そのダイヤルギアを付けてスプレッドにして使ったという。

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開局当時の柳原さんのシャック。

[JA2YDを開局する]

当時、北陸地方には2エリアのコールサイン(JA2WA〜)が割り当てられていたが、金沢市には北陸電波監理局(現北陸総合通信局)があって、落成検査は北陸電波監理局から技官がやってきた。検査には無事に合格し、1954年1月、柳原さんはJA2YDの局免許を得る。当時の福井県内では一番若手のハムであった。

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JA2YDの予備免許。(クリックで拡大)

柳原さんが免許を受けたのは3.5MHzと7MHzで、柳原さんは主に7MHzで運用した。当時電話で出られる周波数は、7MHzではスポットで2波(7050、7087.5kHz)、3.5MHzでも実質的にスポットで2波(3504、3510kHz)しかなく大混雑していた。送信周波数があまりずれると、通称「赤紙」と言われた電波規制通知というハガキがきた。柳原さんのところにも1度この赤紙が届いたことがあったという。

一方、1952年のアマチュア無線再開直後から、北陸地区のアマチュア無線局は、「9エリアのコールサインを割り当てて欲しい」という運動を起こしており、クラブのミーティングに行くたびに、先輩から進捗状況の報告があった。「JA1W〜を指定されていた信越地方でも同じ様な状況であったようでした」と柳原さんは話す。

[JA9CDに変更]

1954年12月、3.5MHzと7MHzがバンドとして解放された。それと同時に、かねてからの要望どおり、北陸が9エリア、信越が0エリアとなった。ただし、コールサインの変更は、自動的に行われるものではなく、指定事項の変更を希望する変更申請書を提出する必要があった。柳原さんは、福井クラブの忘年会で、先輩から「これを使って変更申請書を自分で書きなさい」と、ひな形をもらい、さっそく申請書を作成して北陸電波監理局に提出した。

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柳原さんが提出した指定事項変更申請書の副本。(クリックで拡大)

当時は、受信機を取り替えても変更申請が必要な時代であった。「希望したというより希望させられたという方が正しいと思います」と柳原さんは話す。柳原さんは12月20日に変更申請書を郵送し、28日付で受理されたため、年が明けた1955年1月1日から、さっそくJA9CDのコールサインでオンエアを始めた。

[50MHzを始める]

その頃から、柳原さんは50MHzを始めた。送信機は手元にいくらでもあった807が50MHzでは能率が良くないため、まずは2E26をファイナルに使ったが、程なくTVI対策のため832Aを入手しファイナルを変更した。受信機は超再生で始めて、その後HFの高1中2受信機にクリスタルコンバーターを付加して使用した。

アンテナは当初竹竿で骨組みを作ったワイヤーダイポールを使用。その後4エレ八木を自作した。ダイポールアンテナでは、近所の局とのQSOが精一杯であったが、4エレ八木に取り替えたところ、いきなり兵庫県の明石市まで飛んでいき、八木アンテナの威力に驚いたという。

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JA9CDに変更した当時のQSLカード。

当時の福井で50MHzを運用していたのは、JA9AA円間さん、JA9AL平等さん、JA9BD口野さん、JA9BR坂野さん、JA9DC奥村さん、それに柳原さんであった。学生であった柳原さんは、毎晩のように50MHzを運用していたが、他局はすべて社会人であり、よく「無線ばかりやっていないで勉強しろ」と言われたことを覚えている。また、当時の福井の50MHzでは、JA9AA円間さんなどが先生になって、和文モールスを毎晩送信してくれ、それを受信して2アマ局は電気通信術をマスターしていった。その結果柳原さんは、欧文モールスより先に和文モールスをマスターしてしまった。