[テレビジョン技術者養成所に入所]

アマチュア無線を始めると、ますます無線が好きになって、職業も無線関係のものに就きたいと考えるようになった。高校3年の時には、放送局への就職を真剣に考え始めた。しかし、両親は、ラジオ好きな息子は家業のラジオ屋を継ぐものと考えていた。そこで、高校卒業後は、ラジオ屋の跡継ぎとしてTV放送にも対処させるため、専門教育を受けさせることにした。

1955年3月、高志高校を卒業した柳原さんは、東京のテレビジョン技術者養成所に入所した。この養成所は、1953年から始まったばかりのTV放送に関して、1年間かけて受像器の修理などを教えテレビ技術者を育成するいわば学校で、NHKなどが中心となって設立された財団法人・電波技術協会が運営する。柳原さんは、東京に在住中、おじさんの家に下宿させてもらっていたが、無線ができる環境ではなかったため、「期間が決まっていましたので、無線は我慢しました」と話す。

[福井放送に入社]

しかし、1年間の養成期間のところ、柳原さんは9ヶ月目に病気になり、やむなく退所して福井に帰ることになった。病気療養中に、実家でラジオを聞いていたところ、たまたま地元のラジオ局である福井放送が技術者募集の告知を放送していた。柳原さんは、「これだ」と思い、両親に話をして入社試験を受験した。めでたく合格し、1956年3月、福井放送に入社することになった。

福井放送には、技術職で就職したため、入社後は、813というパワーが出る球の存在を知り、放送機器のメンテナンスや、送信機の設計を先輩から教えてもらったりしているうちに、ますます技術力が身についていく。「好きな事だったから何でも全部吸収できました」と話す。また福井放送に就職すると同時に、アマチュア無線も本格的に再開した。無線に熱中した柳原さんは、いろいろなミーティングにも顔を出すようになる。

[大阪放送に転職]

その頃、大阪で大阪放送(愛称ラジオ大阪)が開局することになり、局の立ち上げに際して技術者を募集していた。柳原さんは、産経新聞の募集記事を見て大阪放送への転職を考えた。大阪への転職となれば、福井を離れなければならない、当然家族の反対もあったし、何より、大阪に出て行ってアマチュア無線ができるかどうかも分からない。無線局を廃局しなければならない可能性があることは辛かったが、柳原さんは、「家や財産は弟に全部やるから、大阪に行かせてくれ」と両親を説得して、大阪放送への転職を選んだ。

柳原さんは、1958年5月末に大阪放送へ就職した。7月1日が開局日だったため、開局前の一番忙しい時期であった。高槻市に下宿し、梅田にあった会社まで通った。なお、局の落成検査は6月で、堺市の初芝に送信所があったため、柳原さんはスタッフの一人としてそこで落成検査を受けた。この時の検査官の1人は、たまたまアマチュア無線の先輩であるJA3AA島さんだったことを覚えている。

[1アマを取得]

アマチュア無線活動であるが、大阪に出てきた後、JA3AA島さんの紹介もあって、JA3AV辻村さんをはじめ多くの3エリアのハムと知り合いになり、当時のJARL関西支部の活動に顔を出すようになった。ミーティングに行くたびに、「関西に居るんだから、早く3エリアのコールサインを取れ」と諸先輩から言われたが、柳原さんは、第1級アマチュア無線技士の資格を取ってから3エリアで開局しようと決めており、1959年10月期の国家試験に挑んだ。

その頃、アマチュア無線の資格制度が変わり、従来は1アマと2アマの2資格しか無かったところに、新たに電話級アマチュア無線技士と電信級アマチュア無線技士の2資格が創設され、合計4資格となった。従来の2アマ(旧2アマ)は電気通信術試験が無かったため電話級相当の資格に格下げとなった。新2アマになるには、5年間の移行期間の間に電気通信術(欧文モールス)の試験に合格する必要があった。旧2アマであった柳原さんは、まずは移行試験をパスして新2アマになってから、改めて1アマにトライするという方法もあったが、新2アマへの移行試験と1アマの国家試験の願書を同時に提出した。

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1アマ国試の合格通知。

理由のひとつとして、当時柳原さんは和文モールスをすでにマスターしていたが、1アマの国試をパスするには欧文モールスを習得する必要があった。一方、新2アマへの移行試験は欧文モールスだけのため、どうせ同じ事を勉強するなら、ということで同時受験を決断した。試験結果は、両資格とも合格であった。晴れて1アマとなった柳原さんは、すぐに3エリアでの開局手続き始めた。

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1アマの無線従事者免許証。

[JA9CDをJA3BJHに変更]

しかし、色々と話を聞くうちに、当時は電話級ハムが激増し、開局申請が殺到して順番待ちとなっており、新たに無線局を開局には非常に時間がかかることが分かった。しかし、JA9CDの局免許の変更申請という方法をとれば、比較的早く3エリアのコールサインが取得できることが分かった。そのため、柳原さんは、JA9CDの局免許の設置場所の変更、同時に出力も500Wへの変更申請を行った。

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JA3BJHへの変更許可書。(クリックで拡大)

その頃は吹田市内のアパート住まいであったが、アパートの軒下に張ったワイヤーアンテナで変更検査を受けたという。結果は合格。「電波が飛ぶ、飛ばないと、無線局の検査は直接関係がないので、あんなアンテナでもよかったんですよ」と話す。ちなみに現在では電波防護指針が定められているため、アパートの軒下に張ったワイヤーアンテナで500W免許を取得することは無理に等しい。こうして1960年2月、柳原さんのコールサインはJA3BJHとなった。

ただし、この変更申請によってJA3BJHのコールサインを取得したことで、JA9CDのコールサインは失効してしまったため、柳原さんは、後日改めて、実家を設置場所にしてJA9CDを再開局している。この時から、柳原さんは2つのコールサインを持つようになった。