[SSB機を作る]

1960年2月、コールサインをJA3BJHに変更した柳原さんは、アクティブに運用するようになる。リニアアンプも自作し、初期のファイナルには4B13(813)を2本使用して500W出力を得た。その頃の電話はまだAM全盛期の時代であり、柳原さんもAMで運用していたが、AMに比べて効率のよいSSBに興味を持つようになった。当時のSSBはまだまだ一部のパイオニアが実験している程度であった。

柳原さんは、JA1ACB難波田さんがCQ誌の別冊に書いた記事を参考にしてまずは受信機の制作に取りかかった。しかし、SSBを受信するには、切れの良いフィルターが必須であった。そのため柳原さんは、給料を叩いて国際電気が発売していたメカニカルフィルターを入手した。月給が5700円の時代に10000円もする代物であった。

受信機が完成すると、次は送信機の制作となるが、送信機にもフィルターが要る。柳原さんは「安月給ではなかなか厳しかったです」と話すが、なんとかもう1個メカニカルフィルターを入手して、送信機も完成させた。そして受信機、送信機とも動作確認も済ませ、いつでもオンエアできる体勢になった。しかし当時は、免許を受けていないモードの電波を発射するには変更申請を行って、変更検査をパスしなければならない時代であった。

面倒だなあと思っているうちに、1961年に結婚し、さらに1964年2月に長女が誕生すると、忙しさからアマチュア無線のアクティビティが低調になり、結局、変更申請書を提出する機会を逸してしまった。その頃の柳原さんは、自宅からはほとんどオンエアせず、移動する局の免許を受けて、時々、六甲山などから50MHzを運用する程度であった。

[ラジオ関西に転職する]

1969年、柳原さんは神戸市に本社のあるラジオ関西に転職した。それに伴って吹田市から神戸市垂水区に転居した。子供にある程度手がかからなくなったことと、入居したのが就職先の社宅だったため比較的自由が利き、引っ越し後落ち着いてから、社宅の屋上にアンテナを上げて変更申請を行った。そのときになって、ようやくSSBモード追加の申請を行ったが、当時はすでにメーカー製のリグを手に入れており、メーカー製の送信機で申請を行ったという。さらに、1966年からバンド解放された1.9MHz帯にも興味がわき、1.9MHz帯も追加申請を行ったが、このバンドだけメーカー製が対応していなかったため、送受信機を自作したという。

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1970年当時のJA3BJHのシャック。

またリニアアンプも自作して、1.9MHz帯は250W、3.5〜21MHz帯は500Wの申請を行い変更検査を受検した。この時の検査官は、またまた、前職場であるラジオ大阪の送信所での落成検査の時と同じ、アマチュア無線の先輩でもあるJA3AA島さんであった。

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1972年に受けた再免許状。(クリックで拡大)

[神戸クラブに入会する]

転職前のラジオ大阪の時代は社内にハムが居なかったが、ラジオ関西に転職すると、社内にはJA3KA高見さん、JA3LE富田さん、JA3BAM大林さんらがいた。また、彼等は地元の神戸クラブ(JA3YBL)に所属していたため、柳原さんも誘われて神戸クラブに入会することとなる。大阪に住んでいた時代は、JARL関西支部に出入りはしていたものの、どこのクラブにも所属しておらず、神戸クラブが関西に出てきてはじめて入会した地域のクラブとなった。

当時から神戸クラブは移動運用を盛んに行っており、また多くのメンバーは、JARL主催コンテストのクラブ対抗部門に力を入れてエントリーしていた。柳原さんは、1969年8月の入会後、その年の11月に開催された2m&downコンテストのため、さっそくクラブメンバー4人とともに徳島県の剣山山頂に移動した。「全国制覇に行こうか」という乗りであったという。

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剣山でのスナップ。左からJA9CD、JA3FBM、JA3BAM、JA3DLW、JA3OPの各局。

[各種コンテストにエントリー]

JARL主催コンテストのクラブ対抗部門は、クラブ員がそれぞれ獲得した得点の合計で争われるため、クラブ員がおのおのの個人コールで、各バンドにエントリーした。柳原さんは、430MHz部門にエントリーした。リグは、アルゼンチンへの移民輸送船から取り外したプロ用のUHFトランシーバーを430MHzに改造して使用、アンテナには5エレメント八木を使った。電源には発動発電機を山頂まで担ぎ上げたという。一番の重量物は430MHzのトランシーバーであったが、それを担ぎ上げた柳原さんは、見事に全国1位を獲得した。

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右側の上蓋のない無線機が、430MHzトランシーバー。

2m&downコンテストの他にも、神戸クラブでは8月のフィールドデーコンテストに毎年必ず移動して参加していた。1972年のフィールドデーコンテストでは、柳原さんは1.9MHz部門にエントリーし、全国2位を獲得した。もちろん柳原さんだけでなく、クラブメンバーが皆がんばったため、神戸クラブは、毎年クラブ対抗部門で、全国順位1桁に入っていたという。

[1.9MHzの移動運用]

この頃から柳原さんは1.9MHzの移動運用を行うようになる。当初は神戸クラブのメンバーと一緒に移動していたが、翌1973年になると、単独で移動運用を行うようになる。「当時は1.9MHzでのJCCハンティングが流行っており、そのためニーズがあって、各局からのリクエストを受け、積極的に移動運用を行っていました」と話す。その当時は、JA3AA島さんが小冊子「160m Band News」を発行するなど、1.9MHz帯は活況であった。

しかし、移動先から1.9MHzにオンエアしようとすると、アンテナが巨大になる。当時はアマチュア無線の用途で開発された伸縮ポールやタイヤベースなど無かった時代である。柳原さんは、ジャンク屋で放送局払い下げの「繰り上げポール」という名の5mの伸縮ポールを入手した。これは、ポールの根本に付いているハンドルをくるくると回して行くと、ポールが伸びるという仕組みのものであった。

柳原さんは、この「繰り上げポール」を支柱にして、滑車を使って1.9MHz用の逆Vダイポールアンテナを上げた。それでも全長約80mのアンテナが展開できる場所は、どこにでもあるものではない。移動先は、主に河原や堤防沿いであった。その他、「小学校や中学校の校庭を拝借したこともありました。当時は今のようにセキュリティがうるさく言われていなかった時代ですので、校庭には簡単に出入りできました」と話す。また、山の上にも移動したことがあったが、目的はVHFの様にグランドウェーブを延ばすことではなく、単にアンテナを展開する敷地の確保が目的であった。

[自らもWAJA、JCCを完成]

移動に持って行ったセットは、自作の1.9MHz専用送信機と、専用受信機であった。送信機のファイナルには、50MHzの送信機でも使用した2E26を使用した。また1.9MHzは電信専用のバンドだったので、変調機などは必要なかった。電源は発動発電機を回したという。この頃は1.9MHzの移動運用に明け暮れていたが、柳原さんの他に1.9MHzを携えて移動する局は少なかったので、その筋では有名人だった。

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メーカー製外部VFOのケースを流用して作った1.9MHz受信機(左)と、1.9MHz送信機(右)

一方、柳原さんは、移動運用で各局にJCCサービスをするかたわら、自宅からも1.9MHzを運用し、47都道府県との交信を完了させて、1973年10月1.9MHz特記のWAJAを特記順位28位で獲得している。今でこそ、特記順位は10位までしか付与されないが、アワード発行元のJARLは、その当時100位まで特記順位を付与していた。

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特記番号28番の1.9MHz WAJA。

1.9MHz主体の各種会合にも積極的に参加した。1974年5月25日には名古屋市で開催された全国160mミーティングに参加している。翌5月26日には、第16回JARL通常総会が名古屋市で開催されることもあって、このミーティングには文字どおり全国から参加者があった。その後柳原さんは1976年4月22日付けで、1.9MHz特記のJCC400を獲得した。特記順位は10位であった。この頃が1.9MHz帯運用のピークであったという。

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160mミーティングでの寄せ書き。(クリックで拡大)