[支部長に推薦される]

1976年4月、柳原さんは、周りからぜひやって欲しいと頼まれて引き受け、兵庫県支部長に就任した。選挙では対立候補はおらず無投票当選であった。その後3期6年間、支部長を歴任することとなる。支部長になってまず直面した大きな仕事は、養成課程講習会の開催に関する諸問題の解決であった。当時は、養成課程講習会を開催したいという登録クラブが多くあり、開催地域や開催日程が重なってしまうため、その調整が大変であった。中には自分のところにやらせろと圧力をかけてくるクラブもあったという。それでも支部長2期目に入る頃には、少しずつ講習会が下火になっていき、自然な流れで解決していった。

支部長2期目に入っていた1979年4月、柳原さんは、兵庫県内高砂市の戸建て住宅に転居する。念願であったアマチュア無線用の15mタワーを建柱して、14、21、28MHz用の自作キュビカルクワッドアンテナを上げ、このアンテナを使って熱心にDXCCハンティングを行うようになった。「もうDXCCハンティングは止めてしまいましたが、280カントリーぐらいはQSOしました」と話す。

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1980年当時の柳原さんのアンテナ。

[なにわ総会の議長に選ばれる]

日本万国博覧会(大阪万博)から10年目にあたる1980年5月25日、大阪府吹田市の万国博ホールで、第22回JARL通常総会(愛称 なにわ総会)が開催された。支部長3期目に入っていた柳原さんは、この総会の議長に選ばれた。なにわ総会には利便の良さから、当時としては過去最高の2500人もの会員が全国から出席して盛大に行われ、柳原さんは大役を果たしている。

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なにわ総会記念局のQSLカード。

[神戸ポートアイランド博覧会]

1981年3月20日から同年9月15日まで、神戸港の一部を埋め立てて造られた人工島、ポートアイランドにおいて神戸ポートアイランド博覧会(愛称 ポートピア’81)が開催され、期間中1610万人もの入場者数を記録した。この神戸ポートアイランド博覧会(以下ポートピア’81)の会場内に、独立したパビリオン(アマチュア無線館)で特別記念局を開設し、会期中を通してその運用ならびにパビリオンの運営を行ったことが、柳原さんの、支部長としての最後の大仕事となった。

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ポートピア'81のパンフレット。

博覧会を始め各種催事でアマチュア無線の特別記念局が開設されるのは、1970年の大阪万博を皮切りに、ポートピアの前にすでに何例かあり、ポートピア’81が開催されることが決まった時から、兵庫県支部内では、会場内に特別記念局を開設しようという話が出ていた。そのアイデアは皆が同意するところとなり、どうせやるなら、独立したパビリオンにしたいという話が持ち上がった。

[博覧会協会との交渉]

間借りだと、建物の管理の関係で運用時間に制約ができるため、海外との交信に適した時間に運用できないケースが多く発生するからだ。そうなるとQSOを通して海外に向けての十分なピーアールができないことになる。しかし、ポートピア’81までに運用された特別記念局で、独立したパビリオン内に開設した例はなく、経費面や管理面等、諸問題の発生が予想された。それでも、独立したパビリオンでの開局を前提に、支部長の柳原さんを中心に話を進めていくこととなった。

独立パビリオンで出展するには、まずは博覧会会場内での敷地の確保が必須となる。柳原さん等は、まず神戸市の博覧会協会との交渉に入った。しかし、一介の趣味の団体が大規模な博覧会の会場内で、パビリオンの敷地を確保するのは容易ではなかった。それでも兵庫県支部のスタッフ5、6人が実働部隊となり、あらゆるコネを使って交渉を進めていったという。

[ヨットレース]

神戸市はサンフランシスコ市と姉妹都市になっており、ポートピア’81の開催に合わせてサンフランシスコ-神戸間で「神戸ポートピア博記念シングルハンド太平洋横断ヨットレース」を開催することが決まっていた。そのレースに出場予定の「太陽号」というヨットには、アマチュア無線機が積まれ、レース中にアマチュア無線を運用するという情報を得た。ヨットに乗るのはJR3JJE堀江謙一さんの友人今田さんであった。

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太陽号のシャック。

柳原さん等は、この太陽号と特別記念局間で交信して、来場者に見せることも出展交渉材料のひとつとした。これには効果があり、博覧会の宣伝ネタになると協会側も興味を示したという。柳原さん等の粘り強い交渉の結果、ついに独立パビリオン「アマチュア無線館」の出展が承認された。開催のちょうど1年ぐらい前であった。

[出展費用の確保に奔走]

出展が承認された後の大仕事は、出展費用の確保であった。まずは、JARLの関西支部に資金援助の依頼を行ったが、「支部レベルでは、10万円、20万円の話ならともかく、桁が違うので、本部でないと無理」と言われてしまった。そのため、柳原さんは、東京のJARL本部に対して、資金援助を依頼した。と同時に特別記念局の開局手続きの依頼も行った。

本部からは「建物はどうするんだ」などの質問が返ってきたが、具体的な計画の話をした結果、承認が下り、200万円の援助を取り付けた。その他、足を使って地元の企業などを回り、さらには個人の寄付も含めて300万円を集めることができた。最終的には各方面からの援助を得て約500万円の資金が調達でき独立パビリオンでの開局の目処が立った。

[手作りでパビリオンを作る]

アマチュア無線館の工事は1981年の正月明けから取りかかった。建屋はトラックの中古コンテナを利用することとし、西宮の業者に頼んで会場に置きに来てもらった。1つでは狭いので、2つのコンテナを借り、数m離して縦に平行に並べ、コンテナ間に屋根を付けて部屋を作った。入り口の扉や窓の取り付け、コンテナへのペンキ塗りから看板の設置、館内部の電気配線など、後に運用委員となるメンバーが皆協力して作業した。「アマチュア無線館はみんなの力でできたんです」と柳原さんは話す。

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コンテナを2基設置した時の様子。

タワーは自立タワー1基と、ルーフタワー2基の合計3基建てたが、メンバーにはアンテナ工事のプロがいたため、そのメンバーが中心となって作業を行った。3本のタワーには各バンドの運用に対応できるよう、オールバンドのアンテナを分散して設置した。工事に着手したときには整地すらされていない土の地面であったが、建物が完成する頃には、アスファルトも張られて立派になった。特別記念局のコールサインは8J3XPOと決まり、工事が完了した後、500W局なので新規開局の落成検査を受けた。こうして、3月20日の開会を迎えることになった。