[運用委員を募集]

1981年3月20日、ポートピア’81が開会した。その日からアマチュア無線館もフル稼働することになる。博覧会の営業時間内の休館は認められないため、常にスタッフが詰めて来場者の対応をしなければならない。そのため、柳原さんは事前に、地元の有力クラブに声をかけ、運用委員を募集した。その結果、神戸クラブ、阪神クラブ、金星台ハムクラブ、神戸市役所ハムクラブを中心に約50人が集まった。

この50人の運用委員でアマチュア無線館の運営を行っていくことにした。仕事を持っている委員がほとんどだったので、回していけるか心配であったが、結果的にはいつも10人ぐらいの委員がパビリオンに詰めてくれたという。独立パビリオンのメリットは夜間運用が可能なことであり、日中は一般来場者に運用してもらい、夜は運用委員が主に海外との交信を通して、博覧会のPRを行った。

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8J3XPOでATV(アマチュアテレビジョン)を運用中の柳原さん。

夜に会場内をうろうろしていて問題なかったかというと、どこのパビリオンでも日々メンテナンスを行っており、これらのメンテナンスは閉館後にしか行えないため、夜間でも博覧会会場内には、業務入場証という関係者の入場パスをもった各パビリオンのスタッフが会場内に留まっていた。もちろん業務入場証があれば、24時間いつでも入退場が可能であった。

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ポートピア'81の業務入場証。

柳原さんは、「私は、ほぼ毎日アマチュア無線館に行きました。私以外にも、副支部長だったJH3TNL岸本さんもほぼ毎日駆けつけてくれました」と話す。そのほか、神戸市役所ハムクラブは、クラブ員を交代で毎日必ず1人出してくれた。これは、毎朝開場前に博覧会全体の朝礼があり、注意事項等が連絡されるので、各パビリオンから1人出席する必要があったが、協会と話をすることになった際に、市の人なら協会側も安心するという理由で、神戸市役所ハムクラブにお願いしていたのであった。運用委員はみなボランティアで、交通費はもちろん弁当代の支給すらなかったが、みな献身的に動いてくれ、大きなトラブルもなく会期が経過していった。

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柳原さんが受賞した1.9MHz A1特記のポートピア'81アワード。発行者も支部長の柳原さん。(クリックで拡大)

[太陽号との交信]

開催前に博覧会協会と約束していた、神戸ポートピア博記念シングルハンド太平洋横断ヨットレースに参加していたヨット「太陽号」との交信は順調に進み、ほぼ毎日交信できた。パビリオン内の壁には掲示板を作って、「太陽号」の現在位置を表示して来館者に見てもらった。レースの結果はなんと「太陽号」が1着でゴールし、新聞やニュースでも取り上げられたため、アマチュア無線と博覧会のピーアールが同時に行えた。そんなこともあって、柳原さんに博覧会協会から記念品が出たという。

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太陽号の現在位置を表示したパネル。

夏になると、コンテナ内は高温になり、居心地が悪くなってきた。当初予算の関係でクーラーの設置は考えてなかったが、一般来場者は短時間の滞在なので、クーラーなしでもいけないことはないが、ボランティアで詰めてくれている運用委員がバテてしまってはアマチュア無線館の運営が成り立たなくなるため、急遽設置することにしたという。クーラーの設置もあって夏も乗り切り、9月20日の閉局の半年間で、交信局数は10万局を突破した。

[QSLカードの発行]

ここで8J3XPOのQSLカードの発行について紹介する。8J3XPOでは特別記念局としては初めて電子ログを採用し、当時は手書きでの交信データの記入があたりまえであったQSLカードについても、プリンターによる印字を採用した。これによって10万QSOという数のログを処理でき、かつQSLカードの発行にかかる労力の削減、QSOデータの集計や分析にかかる労力の削減も達成できた。これらはすべて柳原さんのアイデアであった。

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8J3XPOのQSLカード。

もともと柳原さんはコンピューターが得意であった。柳原さんがコンピューターを習得したきっかけは、大阪放送への勤務時代までさかのぼる。当時の大阪放送は産経新聞の創業者である前田久吉さんが社長を務めていたが、前田さんは大阪電気通信学園(現大阪電気通信大学)のオーナーでもあった。そのため、大学を出てない柳原さんらは、社命によって大阪電気通信学園に勉強に行かされた。そのときに、コンピューターを勉強した。当時はまだ真空管製のコンピューターの時代であった。

[コンピューターを自作]

柳原さんは、CQハムラジオ誌の別冊でボードコンピューターを作る記事を読んだことがきっかけで、1980年に8ビットマイコンを自作した。自作と言っても現在のように、パーツを組み合わせてパソコンを組み立てるといった物ではなく、配線図を見て基板から作った。プログラムは機械語で書き、起動する度にカセットテープから読み込んで動作させた。

初めて使ったコンピュータープログラムはエレキーであった。逆に、エレキーが使いたくてマイコンを作ったと言った方が正しいかもしれない。当時の柳原さんは、電信の運用には半自動電鍵であるバグキーを使用していたが、米国のARRLが発行する機関誌「QST」誌に掲載されたエレキーの記事を読んで興味を持ち、エレキーが欲しくなってマイコンを自作した。その他にも印字電信であるRTTY(ラジオテレタイプ)にも興味を持って、これもマイコンを使って実現しようとしたのであった。

[RTTYを始める]

柳原さんは、ハムジャーナル誌にJA1BLV関根さんが書いた記事を参考にして、自作の8ビットマイコンを使って電動タイプライターであるIBM735を駆動した。これによって、HF機で受信したRTTYの信号を、IBM735が紙に印字し、文字として目で確認できるようになった。プログラムをマイコンに読み込ませるのに、パンチャーテープを使ったが、RTTYの運用プログラムに必要なパンチャーテープの長さは半端ではなかったという。

当時、このような実験を行っているのは、国内では数えるほどの局しかなかったので、近所のアマチュア局が柳原さんのシステムの見学のため、よく高砂のシャックまでやってきたという。柳原さんがRTTYに興味を持った理由のひとつとして、「RTTYしか運用しない珍カントリーの局がいるという話があったからです」と話す。いわばDXCCのカントリー数を延ばすこともRTTYを始めた目的の一つであった。

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ローカル局が柳原さん製作のマイコンで動くRTTY装置をよく見に来た。

それから、半年ほど経過すると、NECやシャープが既製品のパソコンを発売するようになった。それらはパソコン本体とディスプレイ、キーボード、カセットテープが一体になった製品であった。