[電子ログソフトを作る]

話を8J3XPOの電子ログと、QSLカードの発行に戻す。特別記念局は、全国はもとより世界各国から呼ばれるため、相当な交信数になると柳原さんは予想していた。特に、8J3XPOは半年間のロングランだし、夜間も運用するため、従来の特別記念局とは比較にならないくらいの数になると予想していた。

そのため、QSLカードへの交信データの記載を手書きで対応していたのではとても追いつかないと考え、コンピューターを使って自動化する方法を検討した。しかし当時は既存の電子ログソフト、QSLカード印字ソフトなどはなく、一からプログラムを作るしかなかった。

柳原さんは、仕事がらコンピューターに精通していたことと、自宅でも自作のパソコンを使ってすでにRTTYの運用などを行っていたため、プログラムについてはある程度目処が立っていた。そのため、開会前の早い時期から8J3XPOで使う予定のログソフトのプログラミングを始めた。しかし、プログラムが完成してもコンピューター本体や、プリンターなどのハードが別に必要。さらに、プリンターで印字できる専用のQSLカードも必要であった。

[ハードを調達する]

まずコンピューター本体などのハードについては、「コンピューターの宣伝をしっかりしますから」と交渉し、シャープ(株)からKC-80機を3台借りることができた。次にコンピューター印字専用のQSLカードについては、「博覧会が終了したらログソフトの販売権を無償で譲渡しますから」と交渉して、(株)アドカラーから提供してもらうことになった。こうして、8J3XPOでは特別記念局としては初めて電子ログを採用し、その電子ログを元にして、プリンターによるQSLカードの印字を可能にした。これによって、最終的に10万局を超える交信のログを処理できた。

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シャープ(株)から借りたKC-80と柳原さん。

では、現在のように、実際にオペレーターが交信しながら、同時にコンピューターにデータを打ち込んでいったのかというと、そうではなく、一旦は紙のログに記入してもらった。1981年当時はほとんどの局が紙ログを使っており、リアルタイムでコンピューターログに入力できるオペレーターなどいなったため、それが現実的な方法であった。

[マークシートでデータを入力]

オペレーターには、自分の運用が終了したら、紙ログに書いた交信記録を、マークシート方式のログテータ入力カードに1交信ずつ記入してもらった。それを運用委員がシャープから借りた2台とカードリーダーでコンピューターに取り込んだ。オペレーターには多少の不便をかけることになったが、QSOデータの各種集計や解析にかかる多大な時間を考えると、非常に効率的な方法であった。もちろん、運用委員など手慣れたオペレーターの場合は、直接、ログデータ入力カードに交信記録を記入してもらった。

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上(赤)が来訪運用申し込みカード。下(緑)がログデータ入力カード。(クリックで拡大)

また、一旦ログをコンピューターに取り込めば、必要な交信記録を打ち出すことなど容易なので、来訪運用者には、その人が行った交信記録のみをプリントアウトして帰りに渡し、持って帰ってもらうことができた。これは好評であった。なお、QSLカードの印刷は貯めてしまうと後が大変になるため、毎日、その日の交信分をプリンターで印刷して積み上げていったという。

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来訪運用者に渡した交信記録。(クリックで拡大)

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コンピューターに入力されたログデータから、プリンターで印字したQSLカード。

[閉局]

ポートピア’81は半年間の会期終了後、9月15日に閉会した。それと同時に8J3XPOも9月15日の運用を最後に閉局した。閉会後は出展関係者らを集めたさよならパーティが開催され、アマチュア無線館からも柳原さんらが招待された。

閉会後は、パビリオンの撤去や機材片付けの仕事が待っていた。アイコム他無線機メーカーから借り受けた無線機、アンテナメーカーから借り受けたアンテナ、さらにはシャープから借り受けたパソコンなどは、すべて譲渡扱いとなったため、抽選会を行い、会期中の半年間、手弁当のボランティアとして協力してくれた運用委員に「抽選会」で振り分けた。建屋に使ったコンテナなど、残った機材は提供元の業者に処分してもらった。

[支部長を辞す]

1976年4月から就任した兵庫県支部長を3期6年を務め、その間、JARLなにわ総会の議長を担当し、またポートピア’81のアマチュア無線館の実行委員長として特別記念局8J3XPOの運営を成功させ、「これだけ一生懸命やったんだから、もう引退させて欲しい」と、副支部長のJH3TNL岸本さんを支部長に推薦して、1982年3月、柳原さんは支部長職を辞した。

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3期目の支部長当選通知書

支部長在任中も、高砂の自宅から、HF帯でのDXingや1.9MHz帯でのJCCハンティングをメインにアマチュア無線の運用はアクティブに続けていたし、また電話級アマチュア無線技師養成課程講習会の講師を務めるなど、柳原さんは精力的に活動していた。

[会社を興す]

1983年1月、柳原さんは、ラジオ関西を退職する。その後、パソコン関連の会社「(有)東亜コンピュータープラザ」を神戸市で創立する。この会社は、パソコンの販売、パソコン教室の開催、パソコン用ソフトウェアの開発、パソコンの保守メンテナンスなどを事業とする会社で、46歳になった柳原さんの決断であった。その後、この会社は、2001年に(有)サテスタドットコムと社名変更し、現在に至っている。

自ら商売を始めた後は、多忙になったため、アマチュア無線の運用は再び下火となり、車に積んだFMモービル機での運用程度となった。唯一のHF運用は、毎年8月、クラブメンバーと一緒に行くフィールドデーでのコンテスト運用であった。ただし、月に1度の神戸クラブのミーティングへは欠席がちだった。