[神戸市三ノ宮に引っ越す]

1983年、神戸市で(有)東亜コンピュータープラザを創立し、商売を始めた柳原さんは、パソコンの販売やソフトウェアの開発とは別に、ラジオ関西から委託を受け、1984年夏から神戸市三ノ宮の地下街「さんちか」内にあるサテライトスタジオで、ラジオの公開生放送を1日2回始めた。併せて、「さんちか」にいるお客様をリスナーとした生放送も請け負った。これらは毎日、放送があり、ディレクター兼技術担当の柳原さんがスタジオに行かないと放送が始まらない。そのため365日三ノ宮まで通う必要があり、利便性を考え1985年、高砂の自宅を引き払って、三ノ宮駅近くのマンションを購入した。

柳原さんは、高砂を引き払う際、一部の機器を残して、ドレークや自作の送受信機を含むほとんどの機器を友人に譲った。譲渡の条件は、タワーを解体して持って行ってくれたら、無線機も全部タダで譲るというものであった。結局、ポートピアハムクラブの何人かでタワーを撤去してもらい機器も彼等に譲った。そうして仕事に専念したが、「パソコンの商売で儲かったのは初めの3年だけです。その後は競争が厳しくなり、価格がどんどん下がって、1割の利益を取るのが大変でした」と話す。

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ドレークのラインで運用中の柳原さん。

[生まれ故郷に自宅を新築]

1992年、柳原さんは別会社(有)ハーバーランドサービスを創立し、(有)東亜コンピュータープラザで行っていた、ラジオ関西の公開生放送や、地下街の生放送など、ソフト的な事業はこちらの会社に移した。また放送だけでなく、ハーバーランドサービスでは各種イベントや広告関係の業務も始めた。これらは仕事の一部を後進に託し、数年後の自分のリタイアを見据えた計画の一環であった。

というのは60歳になる1996年にはリタイアして田舎に帰り、無線三昧の生活を始めようと計画していた。そのため、1994年には、生まれ故郷にほど近い福井県坂井郡坂井町(現坂井市)に土地を購入し自宅を新築した。前述のように会社も分割して順調に計画を進めていたが、1995年、予期せぬ出来事が発生した。その年1月17日の早朝に発生した阪神淡路大震災である。

[2度目の大地震]

当時はすでにパソコンの小売りはやめていたため、経営する店舗の被害こそ甚大ではなかったが、放送番組が変更になり仕事のスケジュールが変わったり、スタジオが移転したりした。当初さんちかサラテイトスタジオは、客席だけでも40席ほどある広いスタジオであったが、そこが店舗に変わった。三ノ宮では地上が壊滅的な被害を受けたが、地下街はそれほどでもなかっため、地上の店舗が地下に下りてきたからであった。無駄なスペースはできるだけ店舗にしよう、と進められたのであった。それに加え、将来を任せようと考えていた社員の退社もあり、後進に徐々に引き継いでいた仕事のスケジュールに大きな狂いが生じてしまった。

柳原さんは、子供の頃に遭遇した1948年の福井地震に続いて、2度も大地震に震源地近くで被災したのであった。福井地震では家が焼けて何もかも無くなってしまった。阪神淡路大震災では家こそ大丈夫だったが、頭にはものがあたり、家の中はぐちゃぐちゃになった。さらに引退計画のスケジュールも狂ってしまった。「それでも幸いだったのは、2度とも命が助かったことです」と柳原さんは話す。

[神戸に留まる]

1994年には新居を建築し、1996年に引退する計画であったが、大地震のおかげで計画が狂い、柳原さんはそのまま神戸に残って仕事を続けることになる。従って、アマチュア無線の本格的再開の予定も先延びしてしまった。2001年には、スタジオの放送機器などのハード部分の管理や、コンピューターの保守メンテナンス、サーバー管理などを業務にしていた(有)東亜コンピュータープラザを、(有)サテスタドットコムに社名変更した。

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さんちかのサテライトスタジオ。(オンエア中)

また、一般第二種電気通信事業者認可を取得して、インターネットを使ったパソコンメンテナンスサービスを始めた。これは、自社にいながら、インターネット経由で契約先の会社のパソコンを覗いて、リモートメンテナンスを行うものである。このサービスは2009年の現在も行っているが、以前から保守を頼まれているお客様への対応のみで、新規開拓は全く行っていない。ゆくゆくは廃業する考えでいる。

一方、(有)ハーバーランドサービスは、ラジオ放送や地下街の放送を担当しているため、「もう引退しますので、会社をたたみます」という訳にはいかない。そのため、2003年、後進に社長職を託して実務を引き継ぎ、自らは会長に就任して引退する準備を整えている。

話は前後するが、1994年に新築した坂井市の自宅には、2002年、コン柱(鉄筋コンクリート製の電柱)を2本建て、HFのワイヤーアンテナや、V/UHFの八木アンテナを設置して、引退後に備えた準備も怠っていない。「これまでの人生、色々あったけど良かったと思います」、「私は無線だけできればそれでいいんです。」と柳原さんは話す。

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2009年の現在ではコン柱が3本となり、HFからUHFまでの各バンドのアンテナが上がっている。