[テレビジョン実験] 

そのうちに「品川電機」でブラウン管が出来ましたのでモジュレーションメーターも作りました。テレビジョンの実験をしたのもこのころでした。ニポー板式です。私が高等学校の時です。逓信省だったと思いますが実験をしたのを聞いたので、私も試作することにしました。1.6mmのアルミ板を直径60cmの円板に切り、中心から放射状に10度おき位に線を引き、5mmおき位の同心円を中心から外側に引きます。

この放射状の線と同心円の交点を内側から外に向って順々に穴を開けます。これをモーターで回しますとブラウン管テレビと同じ原理の走査板になります。ただし、これを回すモーターはシンクロナスモーターでなければいけないのですが、私はシンクロナスモーターをもっていなかったため不成功でした。

送信はこれと同じ円板(ニポー板といいます)の裏に光電管を配置します。受信機はニポー板の裏にネオン管を置きます。光電管ももらい物です。ネオン管は変調できません。結局、絵は送れませんでしたが、50サイクルの縞が見えました。これで、初期テレビの実験はおしまいです。

日本のテレビジョン開発の先駆者といわれている高柳健次郎さん

[オシログラフに挑戦] 

次に機械的オシログラフを作りました。まず、すり鉢状の白い紙を縦に置き、底になるところに穴を開けて外部のモーターからの軸を通し、すり鉢内の軸の先端に45度の角度を持たせた鏡を取りつけます。一方、すり鉢のあるところに穴を開けて光の点を採り入れます。その光の当たる位置に、振動部の中心に鏡を貼りつけたマグネチックスピーカーを配置します。

光の点はマグネチックスピーカーの鏡に当たり、光の振動となって反射しますが、その反射光をモーターの鏡でさらに反射させると、モーターの回転にともないすり鉢の白い壁を走り回ります。説明が難しいのですが、これでスピーカーからの音声が光の波形となってすり鉢を回ることになります。これが機械的なオシログラフです。

[ハム生活] 

一方、ハム生活も盛んにやりました。10Wから100Wにしましたので、通信も楽になりDXにもある程度力を入れました。結構派手にアマチュア無線を楽しんでいたといえます。私達の集まるところはテラスエーホーという銀座の喫茶店で、時々訪ねると誰か居まして話しに熱中したものです。

当時のJARLは私どもが代わり代わりに本部幹事、関東支部幹事を担当しまして、関東の毎月のミーティングは新橋の「レインボーグリル」に決まっていました。毎月集まってはハム談義に花が咲きました。戦後になって「戦前のメンバー」の会を「レインボー会」と名付けました。今では「レインボー会」は解散されましたが「レインボーDX会」として続いています。「老人会」です。

[迫る戦雲] 

昭和11年(1036年)になると、満州の方から戦争の匂いが漂ってきまして、JARLも軍事色のでた通信連絡演習などもしたと思います。昭和16年(1941年)私は東京工業大学を卒業、私の希望で朝鮮総督府の電気課に奉職しました。ここは発送配電です。朝鮮行きは大学の朝鮮同級生の話しから、日本の朝鮮政策が間違っていると痛感したことと、朝鮮の火水発電事業の壮大なことに動かされたのでした。

しかし、この年の12月、日米戦争が始まりました。それはこれまで日本が中国を侵略し多くの民衆を殺りくしたのに対し、アメリカが中国を救援のため参戦したのでした。当然、日本のアマチュア無線は停止され、器械に封印されてしまいました。私の東京でのハム器械も封印されたのは私の留守の時でした。

朝鮮は日本ですので、プリフィックスはJ8でハムもたくさん居ました。戦後、現在の日本は樺太、朝鮮、台湾が無くなりましたのでだいぶ変わりました。私が朝鮮に行って幾ばくもなく召集され日本陸軍で一兵卒の勤務、敗戦後満州に連れていかれて、シベリアで死なないですんだものの、中国共産党の政府に技術屋(工程士)として7年間も徴用された時にも、アマチュア無線の技術を活用し生き長らえたことを、母校学習院ラジオグループ(GRG)の機関誌に載せた文章を掲載させていただきます。これが、戦争中私のアマチュア無線技術で助かった記録であります。

昭和14年1月現在のJ8管内のアマチュア局

 

※注釈

  1. 1.わが国におけるテレビジョンの研究は昭和3年(1928年)に当時の浜松高等工業での実験が最初といわれている。撮影側は円板を利用したニポー式であり「半電子式」であった。昭和10年(1935年)には、撮影方式にアイコノスコープ(蓄積方式による景画伝送装置)を使用、走査線220本の全電子式テレビ送受信に成功している。

    2.レインボーグリルは、東京・新橋の大阪ビルの中にあり、昭和5年(1930年)からJARL関東支部の会合に使うようになった。詳細は連載が終わった鈴木登紀男さんの「電子工学を伝えて」で触れている。

    3.アマチュア無線の戦争協力は、広範囲にわたって行われた。昭和7年(1932年)ごろから軍事演習の通信支援に駆り出され、日中戦争が始まった昭和12年(1937年)ごろから「国防無線隊」「愛国無線隊」などとして組織された。また、募集による「航空通信隊」「航空情報隊」は、中国大陸で活動した。国内では個人的に協力を依頼されたハムもいた。

    4.戦前の外地(日本の占領地域)のプリフィックスは、朝鮮・関東庁(大連・旅順)J8のほか、樺太はJ7、台湾・南洋庁(南方諸島)はJ9、満州がMX1~MX6だった。