[召集] 

昭和18年(1943年)、太平洋戦争もたけなわとなり、当時朝鮮京城の朝鮮総督府の電気課に勤めていた私にも、いよいよ赤紙(召集令状)がきました。私がなぜ朝鮮に来たかといいますと、それには重要な理由があったのです。私は東京工業大学の電気工学科卒業ですが、同級生に朝鮮の人がいて、この親友に「日本の植民地としての朝鮮人民の絶望的な境遇」をこんこんと聞かされたのです。

私は外国の植民地政策(宗教・教育・医術)と違って、日本は(軍需力・警察力)の基本政策で、朝鮮が長い間痛めつけられたことを聞き心から同情し、日本の帝国主義政策上の怒りを覚え、少なくとも自分一人だけでも朝鮮の人と心から付き合いたい、と思ったのです。そして、1年経ちました。ここは電力事業も実に壮大なので、仕事にも力が入りましたが、なんと赤紙。

文句もいえない召集なので、泣く泣く新婚ホヤホヤの家内を東京に帰し、京城の歩兵第22部隊に入隊しました。大学卒業までは兵役延期でしたので、その時私は28歳になっていました。兵隊検査の時「兵種希望」に「ハム生活に関連して通信兵」と申し出たのでしたが、入隊時には“無線”ではなく“有線”でしたので、電話線の延線・撤収の力仕事と馬の糞掃除の毎日で、まったく馬鹿らしい生活でした。

旧日本軍が使用した各種の無線機。山谷清(JA3CQ)さん所有

[航空情報隊に配属] 

幸い半年ぐらいで無線部隊配属となり、5号無線機という小型無線機をもって錬兵場に行き、のんびりと訓練しました。しかし、モールスを打つのは専門家の通信士の資格をもつ兵隊であり、私達は手動発電機のハンドルを回す役であり、これも馬鹿らしいものでした。

その年に幸運にも朝鮮第7440部隊(航空情報隊)の転属希望者募集がありましたので、さっそく応募、電波警戒機部隊に配属されました。電波警戒機とは、当時の日本にはレーダーというものがまだありませんでしたので、飛行機の高さは測定できず距離と方向だけわかるものです。

この部隊の本部は京城でしたが、新しく平壌近くの鎮南浦に陣地を作るために集めた部隊でした。私達は南鮮の群山で教育を受け鎮南浦の山の上に送受信の局を建設しました。機戒は「日本電気」製のもので、飛行機の距離は300kmまで、方向は180度アンテナを回転して発見できます。

[電波警戒機] 

電波警戒機の出力はVHF50MHz(?)、50kwパルスです。真空管は自励発振空冷で大きな真空管2本を使っていました。よく壊れるので私が京城の本部まで貰いに行きます。標高300mの山の上に20mくらいの木柱を建てて4列8段くらいのコーリニアアンテナを取りつけました。これは中国重慶・昆明の方を向いています。

受信アンテナは木の枠に組んだ4列2段で手動で180度回転できます。これでブラウン管に横に出る光のチカチカで飛行機の方向を探します。この範囲に入った飛行機は100%探知できます。当時、日本の技術最高精鋭のこの部隊のトップ小隊長は甲種幹部候補生のK少尉で、この人は1年しか警戒機の教育を受けておらず、ほかに、警戒機の専門家はいない。

送信分隊には高等工業出の分隊長と、大学工学部卒の上等兵である私であるが、私も専門ではない。4つある受信分隊の分隊長は、高等工業出の乙種幹部候補生の伍長ばかり。兵隊の中の技術者といえば4個分隊に大学出1人、無線を知らない高等工業出3人である。先生はK少尉一人だけで、自分で勉強するしかありません。私達5人は助け合って勉強しました。

私も今まで1回もいじったことのな送信機を仕様書で一所懸命に勉強しました。その結果、皆送信も受信も何とかこなしていました。私もアマチュア精神だけで頑張りました。そして、隊内でただ一人送信機をいじり、直せる技術者になりました。

[対応力無い日本軍] 

送信アンテナは中国重慶・昆明飛行場の方向に向けてありますが、戦争中この警戒網に引っかかったのはただ1回でした。中国はわれわれの陣地を知っているのでしょう。われわれの電波を避けて満州の上空を飛び、朝鮮の上空1万mを飛び、我々の電波に送られて、悠々と帰っていきます。

これを迎え撃つ高射砲は1万mがやっとの高度しか届かないのでだめ。我々の隣から飛び立つ飛行機は練習機の「赤とんぼ」で、それも空中退避が目的です。これでは戦闘になりません。警戒は完璧でも戦闘能力はゼロです。悔しいというよりか、まったく情けない日本軍です。

陸軍95式練習機 通称「赤とんぼ」 (ソリッドモデル)--- 小西製作所ホームページより

※注釈

1.朝鮮は現在38度線以南が「大韓民国(韓国)」以北が「北朝鮮人民民主主義共和国(北朝鮮)」となっているが、戦前の出来事であり呼称は当時にならった。

2.日本軍のレーダー
敵機や敵艦を遠距離から捕捉するレーダーは、開戦時から日本の技術力が劣っていたことはわかっていた。このため、戦時中も陸海軍がそれぞれ直接、あるいは電子機器メーカー、公的な研究所に依頼して開発させたが、最後まで欧米のレベルには及ばなかった。この研究に多くのハムが関わっている。

3.赤紙
徴兵制度のあった戦前は、軍隊への召集令状は何種類かあり「臨時召集」や「充員召集」は赤い紙に印刷され「○月○日○時までに○○に出頭せよ」と記されていた。このため召集令状を俗称で赤紙と呼んだ。ほかに、白紙、青紙の召集令状もあった。

4.赤とんぼ
陸軍の95式中間練習機。練習機と実機との操縦格差が広がりすぎたことから初歩練習機より操縦レベルの高い中間練習機として開発された複葉機。オレンジ色をしていたことから「赤とんぼ」といわれた。陸軍航空兵の多くがこの練習機で教育を受けた。