[帰国・就職] 

私が戦後、日本人技術者としての7年の留用から帰されたのは、昭和28年(1953年)4月であり、中国が私達日本人技術者の代わりにソ連技術者を呼んだからでした。私の帰国の時、召集直後に生まれた長男はすでに11歳でした。敗戦後の日本は私には新開地のように変わり果てていました。インフレの中国から帰った私は日本の物価にてんてこ舞いをしました。私の中国での工程師としての給料は180万円でしたから。市電に乗って息子に「何百円かい」と聞いて笑われました。表面的にはアメリカ兵は見られませんでした。

戦後、OMの方々がマッカーサー司令部に日参し、言語に絶するご努力を重ねた結果、アマチュア無線は再開されていました。私は日本にいませんでしたので唯々申し訳なく思いました。仕事のない日本でしたが、私は幸い昭和29年(1954年)の4月に、日本電気と日本機械貿易(後の三井物産)が資本を出し合ってつくったアンテナの製造・販売会社「安展工業」に販売部長代理として入社できました。

初めは20人程度の町工場で、戦前海軍技術少将でありアンテナの大家であった谷恵吉郎博士の技術指導でテレビ受信アンテナを作り始めました。当時は、テレビ受像機が市場に出て間もなくでしたし、受信アンテナメーカーは日立系の「八木アンテナ」の2社だけでした。八木アンテナの開発者である八木博士は、戦前に宇田先生とともに多素子アンテナの開発を行いましたが、日本ではあまり使われず、アメリカでは戦中も活用されていました。

八木秀次博士。宇田新太郎さんや、他の助手と[八木・宇田アンテナ]を開発した

[アンテナ生産の拡大] 

テレビ受像機の売れ行きとともに、2社のアンテナも飛ぶように売れました。その後、手狭なため会社は東京・大森から川崎に移転し、後に調布に移りました。その後、私はハムらしくアマチュア無線用多素子アンテナを作り、当時のトリオ株式会社の武田技術部長の指導を受けてトリオブランドで発売しました。

同時に携帯無線の小型スプリングアンテナも作りました。その後、独自のコーリニアタイプ無指向性多段アンテナを売りだし好評を得ました。新しいテレビ放送が始まるにともないUHFアンテナ、ブースター、CATV機器と事業は拡大していきました。私が恵まれていましたのは、部下に2人の優秀な技術課長をもったことです。

私が営業部長または、技術部長として日本電気などの技術者と打合せをして戻ると、その2人の技術課長が設計し、立派に製品化してくれました。会社が日本電気の子会社でありますので、日本電気が受注しました防衛庁、気象庁、NHK、民放局、航空局、ロケット、人口衛星などあらゆる目的のアンテナも作り始めました。

初めは20人程度の町工場で、戦前海軍技術少将でありアンテナの大家であった谷恵吉郎博士の技術指導でテレビ受信アンテナを作り始めました。当時は、テレビ受像機が市場に出て間もなくでしたし、受信アンテナメーカーは日立系の「八木アンテナ」の2社だけでした。八木アンテナの開発者である八木博士は、戦前に宇田先生とともに多素子アンテナの開発を行いましたが、日本ではあまり使われず、アメリカでは戦中も活用されていました。

[アマチュア無線] 

こんな状態で私のハム精神も動き始めました。昭和47年(1972年)会社にアマチュア無線アンテナの実験を目的としたクラブ局の許可が下りましたので、私も6月に電話級アマチュア無線技士の免許を取り、JF1ERPのコールサインで再開しました。その後、その年の12月に電信級、昭和51年(1976年)1月に第2級、さらに翌年1月に第1級の資格を取り、移動局、100W固定局の本格的ハム活動が始まりました。

川崎・武蔵小杉の自宅の庭には高さ15mのクランクアップタワー、短波4エレメント八木アンテナを建てて、国内電話だけでなく、14MHzで全世界と交信し、まずWACからWAP、WAZ、WAS、DXCC、ADXA、AJD、WAE、WA-VK-CA、WARC、79、AWARD10MHz、AWARD18MHz、AWARD24MHzのアワードをもらいました。

電信の早さはエレキーで120/分くらいです。QSOは平成2年(1990年)まで続けました。ある日、14MHzで電話に出ていました時に、美しい英語で中国からCQが出ていましたので、最初は英語で応答し話していたのですが、そのうち私が中国語で話しますと、それ以後は中国語の会話に変わりました。

相手が電波をだしている時は、2人は中国語で話しました。そのうち手紙に写真が同封されてきました。上海のなんと15歳くらいの可愛いお嬢さんでした。手紙の宛名は「清岡爺々」でした。爺々(イエーイエー)は中国語で「おじいちゃん」です。何年かたって送られてきた写真はワンピースを着た立派なご婦人でした。

[ARDF] 

私は中国に留用されていましたし、帰ってきてから10年以上も中国語の勉強をしたので中国語は相当です。昭和57年(1982年)にJARLの日中交流として、原昌三会長を初めとして10人くらいで中国のペディションに参加しました。北京に集まって、中国業余無線電協会の会長、秘書長の接待で鄭州のソンサン大広野で行われた中国式のフォックスハンティングに参加しました。

私達は見学のつもりでしたが、中国側の勧めに応じてハンディ機のスパイラルアンテナを外して、いくらか指向性をもたせた線を取りつけ、狐を探しました。今のARDFです。富士山の裾野のようなところですから大変でした。

その後、洛陽、少林寺の拳法学校やお寺を見学、終わって北京、上海の業余無線電台を訪問しました。中国は未だ個人にハム免許がありませんので、このクラブ局に集まって交信します。万里の長城に登ったりしましたが、大歓迎を受けました。私は幸い中国語ができますので、会長、秘書長、台長、案内人達と話して大喜びでした。

ソンサン大広野でフォックスハンティング。前列は伴奏してくれた中国女子選--- 「JARLアマチュア無線のあゆみ(続)」より


※注釈

1.アマチュア無線再開
戦後のアマチュア無線はGHQ(進駐軍)の意向により、簡単に再開が許されなかった。このため、JARLや1部の個人がGHQや日本政府に働きかけ、ようやく昭和27年の7月末に30名に予備免許が下りた。

2.八木アンテナ
八木秀次さんは大阪生まれ、東北帝大時代の大正15年(1926年)に八木アンテナの基本特許を取得した。世界的な発明であるが、日本ではほとんど省みられず、欧米諸国が通信アンテナとして盛んに活用した。開発は同帝大の宇田新太郎講師らとの共同のため、アンテナの正式名称は「八木・宇田アンテナ」である。