[中国での活動] 

昭和59年(1984年)再び中国からJARLが招待されました。今度は四川省の成都での日本式フォックスハンティングです。今回は日本から選手が5、6人行きフォックスハンティングに参加することにしました。私はコーチという役です。さっそく、方探用アンテナを作り選手に配りました。

飛行機で成都へ行き、市内の杜甫公園でのフォックスハンティングです。ここで問題が起こりました。このような狭い公園での経験のない中国は強い送信機を使いましたので、アンテナの指向性が出ず大問題でした。しかし、条件は中国人も同じです。この時、私は副審判長に任命されました。公園といっても竹薮が多く見通しはききません。今回はJARLの原会長やARRL(米国アマチュア無線連盟)の会長であるリチャード・ボールドウインさんも招待され、中米日交換で賑やかでした。

その後、北京、上海、万里の長城などをまた回りました。私は2度目で中国の無線電協会幹部を皆知っていますので双方大喜びでした。成都の業余無線電台からBY8AAのコールサインで電波を出し、一晩徹夜で代わる代わる交代して日本のDXerともQSOしました。

このころの中国は個人のハムの許可は下りませんで、各地の業余無線電台で集まって電波を出していました。その後何年かで個人に許可が出たようです。私がいつか交信した上海のお嬢さんもその一人でしょう。その後、JARLに中国から手紙が来ると、私のところに回ってきますので日本語に訳し、出す時は中国語に訳します。その後は、JARLの各種集会には中国のハム(選手といいます)を招待し、皆で楽しく語り合っています。


中国・成都で行われた「第一回日中親善アマチュア無線測向競技」のもよう--- 「JARLアマチュア無線のあゆみ(続)」より

[退職・再就職] 

昭和51年(1976)年、60歳の時に取締役技術部長で安展工業を辞して、自動車用車載アンテナを作る原田工業に常勤技術顧問で入社しました。この会社は自動車用中波ラジオのロッドアンテナのメーカーでしたが、私が入社してから自動車用FMアンテナ、テレビアンテナなどの改良を行い、自動車電話用アンテナの設計のほか、アマチュア無線用スパイラルアンテナなどの製造もしました。

昭和58年(1983年)68歳にもなりましたので、会社づとめを卒業したくなり、JAIA(日本アマチュア無線機器工業会)の専務理事武田照彦氏のお頼みでJAIAの理事・事務局長に就任しました。武田氏は高等学校の先輩であり、トリオに勤務されていた時にはいろいろお世話になった方です。

JAIAはアマチュア無線機や関連機器メーカーの世話役です。当時の会長はアイコムの井上徳造社長でして、会員はセットメーカー、アンテナメーカー、測定機メーカーなどです。ほどなくして武田専務が退任された後に、急にJARLの白井養成部長から「電話級ハム養成課程の講習会開催の希望者集めと会場提供のために販売店を動員したいので、JARLの代行としてJAIAが担当してくれないか」との申し出がありました。

[アマチュア無線養成課程講習会] 

専務理事が退任されましたし、新米の事務局長で私も途方にくれましたが、JAIAの収入源にはなりますので、会長はじめ理事のご歴々も乗り気でした。白井部長がJARLの講習会講師でベテランの刈谷氏を派遣するといわれましたので、受諾決定し刈谷氏の経験を生かして早速早々の準備にかかりました。事務所はてんやわんやです。

全国のハム関係の販売店に通知して「講習会を開催し、会場を準備できる」JAIA専門会員を募集しました。ハムが増えることは販売店も望むところですので、たくさんの申し込みがありました。申し込みの多い地区から所定の希望者が集まりJAIAが審査して適当と認めますと、講師はJARLから派遣され、講習会を何回か行い、郵政省(現総務省)の試験も行います。

私達JAIAの責任は、この講習会の代行に販売店の法律違反が無いように、時々販売店を集めて説明会を実施することです。郵政省の試験の代行なので間違いの無いように懇々と説明します。そのために私も刈谷氏も全国に出張します。ある時、出張前に刈谷氏が病気で倒れました時は、私が慌てて刈谷氏の講習を録音したテープで勉強して、当分の間、代行しました。ヒヤヒヤでした。白井部長の指導、刈谷氏の活躍でどんどんと成果をあげていきました。この手段でその後どんなにハムが増えたことでしょう。現在も続いています。

[すべてがアマチュア無線] 

毎年のJARL主催の「ハムフェア」にはJAIA会員各社は大々的に出品展示します。同フェアには各国から来賓がありますが、中国からのお客様は私の担当です。昭和63年(1988年)にJAIAを退任しました時には73歳になっていました。それからは自宅でのJF1ERPのDXハンティングでした。長い長いハム人生です。

こうやって私のしてきた人生を見ると、やったことは会社の仕事も、戦争でも、JAIAでも、自分の局のJF1ERPでの交信も皆アマチュア無線人生でした。未だにJF1ERPのコールサインは廃局しないで電波料も払い、大事にしています。

清岡さんのシャック。昭和60年ごろ


※注釈

1.養成課程講習会
アマチュア無線技士受験者増加に対処して、当時の郵政省がJARLに国家試験の一部を代行する形で制度を作った。昭和41年(1963年)3月から実施された。現在は第4級アマチュア無線技士希望者を対象に、6時間の法規、4時間の無線工学を受講した後、修了試験に合格すれば従事者免許が取得できる。JARD(日本アマチュア無線振興協会)が実施機関であり、JAIAも代行している。