[国内外を転々] 

大正10年(1921年)9月、鈴木さんは東京に生まれた。日清、日露の戦勝国となった日本は、世界の「1等国」の仲間入りを果たして久しかった。大正時代には、12年(1923年)に大きな被害を出した「関東大震災」が起こったが、「大正デモクラシー」「大正リベラリズム」といわれるように、「明るく、自由で、進取の気概に富んでいた」時代であった。

そのような雰囲気の中で、銀行員であったお父さんの転勤とともに鈴木一家は、世界的規模で転居した。鈴木さんが2歳の時ニューヨークに移り、現地の幼稚園に6歳まで通う。昭和3年、次ぎは上海へと移り、小学校1年から3年まで「上海北部小学校」で学ぶ。上海時代は日本人生徒だけの日本人学校であった。4年生になると東京・麻布の南山小学校に転校。ここも6年の2学期には離れて、神戸市の御影第2小学校へ転入。

昭和9年(1934年)に関西地区では名門のひとつである神戸一中に入学。3年になると父親は東京へ転勤となるが、鈴木さんは神戸に残り下宿生活。5年生の昭和14年、東京の「藤原工業大学予科」に進学し、再び東京で家族とともに生活する。このように、鈴木さんは転々とした小学生時代を過ごした。

鉱石ラジオ。鈴木さんの時代にはイヤホンはなく、マグネチックレシーバーであった

[ラジオ少年に] 

鈴木少年は幼少の頃から機械や科学に興味をもっていた。今、鈴木さんが記憶にあるのは小学校4年生のころの電気機関車と鉱石ラジオの組み立ての思い出である。電気機関車は模型を父親からプレゼントされ、レールを敷き詰めて走らせて遊んでいたが、模型を調べてみるとモーターと電池があれば作れることを知り、自作に取り組んだ。

鉱石ラジオは「フォックストン」の名前で販売されていた鉱石検波器を買い、スパイダー(くもの巣)コイルを巻き、ヘッドホンで聞いた。現在のJOAK、東京放送局は大正14(1925年)年3月から放送を開始していた。送信所は愛宕山。鈴木少年の家からすぐ近くであり、大きな音量で受信できた。

神戸に移ってからも「ラジオ熱」は薄れることがなかった。中学では「理科学研究会」に入会する。「模型の電気機関車づくりに熱中するグループ、化学実験に取り組むグーループとさまざまだった。無線機に興味をもっている先輩や同級生はいたのかも知れないが、理科学研究会には入っていなかった」という。

[アマチュア無線を知る] 

中学1年生のある日、鈴木少年のお父さんがラジオに夢中になっているのを知って「私の友人のご子息がアマチュア無線というものをやっている。家が近くなので遊びに行ったらどうだ」と提案してくれた。菅沼 弘さんといい、当時は武庫郡であった御影に家があった。鈴木少年は次ぎの日曜日にさっそく訪ねた。

菅沼さんは、関西学院の学生であった昭和6年にJ3DLのコールサインで開局しており、鈴木少年が訪ねたころは関西森永製品販売に勤務していた。大正2年(1913年)生まれの菅沼さんは、8歳年下の鈴木少年に親切にアマチュア無線のことを教えてくれた。菅沼さんのシャンクの壁に張られたQSLカードのことも知り「とにかくびっくりした。海外とも交信できるこんなものがあるのか」と興奮したという。

昭和8年当時の関西のハムは約50名。このうち、神戸市には14名ものハムがいた。草間貫吉(J3CB)さん、谷川 譲(J3CD)さん、松本四郎五郎(J3CI)さん、徳大寺長麿(J3CJ)さんなど、アマチュア無線発祥期のハムが多かったため、後継者が続々と誕生したためである。

「アマチュア無線をやりたい」と決めた鈴木少年に、菅沼さんは「まず、受信機を作ってみたら」という。無線雑誌の「無線と実験」を見ながら1-V-1の真空管式受信機づくりに取りかかる。中学では下級生にラジオ受信機づくりを教え「理科学研究会」にも仲間が増えていった。

鈴木少年は菅沼さんのシャンクに入り浸った。昭和11年12月、菅沼さんの所で緊張気味の鈴木少年

[坂本さんとの交流] 

やがて、菅沼さんは召集を受け北支(北部中国)へ出征、神戸を去る。昭和6年(1939年)9月に満州(現在の中国東北部)柳条湖で起こった軍事事件をきっかけに、翌7年(1932年)3月に日本は「満州国」を建国。さらに、昭和12年(1937年)7月には中国・北京郊外の櫨溝橋で中国軍と衝突を起こし、その後の「日中戦争」が始まる。それにともない、青年、壮年の召集が増えだしていた。

菅沼さんは、出征に当たり神戸市の山本通りに家があった坂本 寛(J3FR)さんを紹介してくれた。坂本さんは当時、神戸工業高等専修学校(現神戸大学)の学生であった。中学4年になった鈴木少年はアマチュア無線免許を取る準備を始める。大阪にあった大阪逓信局に願書を送ると「出頭しろ」との手紙が届いた。