[まだ早い。1年後に来なさい] 

鈴木少年は「あるいは試験をしてくれるのか」との期待をもって訪ねると、係官は「もう1年待ってから願書を出すように」という。当時のアマチュア無線免許の資格には、経済的な裏付けも要求された。事実、高等学校の学生が「親の金で無線遊びをすることは許されない」と願書が返却されたり、大学予科の学生が「大学に入る勉強をまずやりたまえ」と受験を断られたケースもあった。

途方にくれた鈴木少年は坂本さんに相談に行く。坂本さんは「とにかく、試験に受かる力をつけよう」と、法規やモールス符号を教えてくれた。記憶しなければならないのはモールス符号である。合調語で覚えることにして、暇さえあれば手を動かし、授業中も指先を動かし、先生の話しは上の空だった」という。このころ、すでに送信機をつくれるようになっていた鈴木さん、自作の送受信機を備えており、こっそりと電波を出すこともあった。

12月に初めて交信したころの鈴木さん

[逓信局からの2度目の呼び出し] 

しばらくして、鈴木さんは「大阪逓信局」から呼び出される。昭和12年(1937年)12月12日か、翌日である。12日、中国と戦争中の日本軍は南京を攻略する。中国軍の最高統率者である蒋介石が逃げ込んでいたため日本軍は攻撃を重ねた。実際には蒋介石はそれ以前に脱出していたが、この日日本軍は南京を攻略した。日本国内ではそれを祝った「ちょうちん行列」が国を挙げて企画された。

「12日だったのか、翌日なのかははっきりしない」と、鈴木さんは思い出せないが、神戸市内でも湊川神社を解散場所とする行列が催された。「神戸一中」も参加を決めた。その前日、鈴木さんは坂本さんに和文の電信を打った。「ちょうちん行列があり、湊川神社で解散後お尋ねします」と。坂本さんの家は湊川神社のすぐ近くであった。「どうぞ」との返事があった。

逓信局に呼出された鈴木さんに対して、係官はアンカバーであることよりも「坂本さんとの交信内容がアマチュア無線で認められた通信内容ではない」と叱責した。「始末書を書くだけで許してもらえたが、その後は英文にしよう」と、鈴木さんはこの時から和文を打つことを止めたという。「ひょっとしたら係官は、英文なら理解できないかも」と考えたからである。

[そして合格] 

昭和13年(1938年)鈴木さんは、大阪逓信局で受験する。試験のことは良く記憶していないという。現在と違い1人で受験したことは確かであり「筆記試験があったかどうか。どうも口頭試問だったように思う」という。局設備の落成検査を受けたが「落成検査も坂本さんがいろいろと面倒をみてくれた」という。この年の8月12日、ようやく免許が交付された。

調べてみると、同日の免許取得者は秋田県由利郡の阿部小三郎(J6DA)さん、仙台市の有竹秀一(J6CD)さんのともに東北エリアの2人がいる。事実、戦前は東北のアマチュア無線は活発であった。東北帝大の八木秀次さんや宇田新太郎さんらの短波通信の研究の伝統が続いているのが理由と思われる。

鈴木さんは下宿の軒下からにロングワイヤーのアンテナを張り、アンテナ長でチューニングをとり、7MHz、14MHzで交信を始めた。初交信は坂本さんであった。当時は中学4年になると大学への入学試験を受けることができた。しかし、鈴木さんはそれどころではなかった。とにかく夢中になってキーを叩き、マイクの前に座りつづけた。

昭和13年、コールサインJ3CKで免許される。初めてのQSLカード

[JARL関西支部] 

交信を始めた鈴木さんは、さらに関西のハム友達ができ、ミーティングにも参加するようになった。JARL関西支部の昭和10年(1935年)から昭和21年(1946年)までに行われたミーティングの出席者のリストが手元にある。戦後、アマチュア無線が再開された時、関西で最初に免許を得た島伊三治(JA3AA)さんがまとめたものである。

昭和10年2月6日に行われた大阪毎日新聞社ビルで開かれた「研究会」には、山本信一(J3CS)さん、宮井宗一郎(J3DE)さん、草間貫吉さん、長田祝太郎(J3FC)さんなど、後にアマチュア無線や電子工業の発展に貢献されたハムとともに、坂本さんや菅沼さんも出席している。

当時の関西支部の集まりでは、出席者はそれぞれが名簿にコールサインと名前を記入するのがしきたりとなっていた。したがって、今、その名簿を眺めているとなんとなく、その人柄や、断続的ながらその人の歴史までがわかるような気がしてくる。北支に出かけた菅沼さんは除隊となり、後に横浜に住みコールサインはJ2PFに変わり、昭和14年7月に免許が失効している。

しかし、どういうわけか昭和16年2月に大阪朝日新聞社の「青年学校」で開かれた「研究会」に参加しており、参加名簿には他のハムの大きなコールサインと比べ、小さな文字で遠慮がちに「Ex J3DC・2PC」と記載している。坂本さんは10年間に20回開かれたミーティングには6回も出席しているが、戦前に廃局している。ただし、その年月はわからない。また、菅沼、坂本さんのふたりともに戦後はハムにならなかった。ハムとなった鈴木さんは昭和13年(1938年)11月6日に神戸市、同12月3日に大阪で開かれたミーティングに参加している。

自作の送受信機。昭和13年の12月に電波を発射