[関西の戦前のハム] 

鈴木さんのコールサインはJ3CK。昭和4年(1929年)5月に免許を取得し、昭和9年(1934年)9月に免許を廃止した山口篤三郎さんのコールの再割り当てであった。山口さんは大学は東北帝大に進んだ。この当時の関西のハムでは菊池喜充(J3CF)さん、林龍雄(J3CH)さん、三木正一(J3DH)さんらが東北帝大に進学しており、関西の先輩である八木秀次さんにあこがれたのかもしれない。

関西支部のミーティングに参加するようになったのにともない、鈴木さんはますます多くのハムと知り合うようになる。その中で鈴木さんは最年少であった。鈴木さんはいう。「ハムの皆さんは年齢などは気にせず、何でも一人前扱いにしてくれた。学校や社会と違うそのしきたりに改めて素晴らしい人達だと思うようになった」と、当時を語る。

神戸市須磨区の塚村泰夫(J3CW)さんのシャックを訪ねたこともある。「塚村さんには可愛がってもらいました」という。大阪・日本橋の電気店街では「櫻井さん、湯浅さんにお世話になりました」と、思い出を語る。櫻井一郎(J3FZ)さんはトランスを製造、湯浅楠敬(J3FK)さんはトランス用のコアを製造していた。

鈴木さんが知り合った関西の菊池源一郎さん、山本信一さん、中村季雄さん、津賀修三さんらは共通のカードを作った。年代は不明

[コール順に気が引ける] 

山本信一さんは鈴木さんが知った時には、大阪朝日新聞社の通信部に勤めており、幅広く活躍しており「良くしていただいた」という。西宮市でラジオ店を経営していた丹野 勝(J3DG)さんや、大阪帝大学生であった米田治雄(J2NG)さんにも教えを受けた。もっとも、鈴木さんも「お返し」のできる立場にあった。家族は東京へ移り住んでいるため、鈴木さんは長期の休みのたびに東京と神戸を往復する生活を送っていた。

知り合ったハムからは東京・秋葉原での電子部品、部材の購入を依頼されることが多くなった。「とくに水晶片はしばしば皆さんに購入を頼まれることが多かった」と記憶している。ただ「ミーティングとなると、コールサインの順に座ることになり、最年少の私が前の方になるのには気が引けた」と、今でも気にかけている。

[製紙王・藤原銀次郎さん] 

アマチュア無線に夢中になり、進学の勉強はおろそかであった鈴木さんにも、進学の時期はやってきた。昭和14年(1939年)、志望校の試験に落ちた鈴木さんは東京の家族の元に移り、予備校通いを始めた。ほどなくして、お父さんから「藤原銀次郎さんが大学を新設するという。藤原さんの運営する大学なら立派なものだと思う。受けてみたらどうか」と提案される。

ここでしばらく藤原銀次郎さんのことについて触れたい。藤原さんは明治2年(1869年)長野県生まれ。慶応義塾を卒業後、地方紙の「松江日報」主筆、「三井銀行」勤務を経て、「富岡製糸所」の再建を行い、その能力を「三井物産」の益田孝に認められて、同物産に入社。その後「王子製紙」の再建のため、同社の専務に就任し、大正9年(1920年)に社長に就任している。

「製紙王」といわれた藤原銀治郎さんは、慶応大学の前身を作り上げた 日本製紙株式会社ホームページより

[藤原工業大学設立] 

昭和8年(1933年)に「王子製紙」は「富士製紙」「樺太工業」を合併し「大王子製紙」を設立。製紙の国内市場のシェアは90%となり藤原さんは「製紙王」と呼ばれるようになる。同社は戦後の財閥解体により昭和26年に分割されたが、藤原社長は同社の経営以外でも社会貢献をいくつか成し遂げている。「大王子製紙」の社長を退陣した翌昭和14年(1939年)に、「藤原工業大学」を設立した。

それより前の昭和10年から11年にかけて、藤原さんは慶応義塾の小泉信三さんとともに米国の工業教育の視察に出かけている。工業教育の重要さを知らされた藤原さんは私財を投じてでも工業大学を設立すべきだ、との考えをもつようになる。一方、小泉さんは前塾長から「理工学部の設置は君の時代に託された責務」といわれていた。当時の同校には工業系の学部はなかった。

昭和13年(1938年)2人はお互いの構想を話し合う。その後、何度かの話し合いのあと、大学名、設立場所、学制などを詰める。名称は「藤原工業大学」とし、慶応義塾との合併を考慮し、場所も義塾のある日吉に決め、制服、教師の人事なども義塾と同等か、似たようなものとすることになった。

[鈴木さん入学] 

昭和14年(1939年)「藤原工業大学」は、機械工学科、電気工学科、応用化学科の3学科を設置して設立された。すでに、その時点で慶応義塾と合併することが決まっていた。鈴木さんのお父さんが入学を勧めた理由もそこにあったものと思われる。いずれにしても鈴木さんは入学試験に合格。「入学式は6月17日に行われ、授業の遅れを取り戻すために夏休みは8月に2週間あっただけだった」など細かなことを鈴木さんは記憶している。

その8月1日付けで鈴木さんはJ2KIのコールサインを得ている。このコールサインは、小島徳寧さんが昭和9年(1934年)3月29日に取得し、昭和11年(1936年)に失効していたものの再割り当てであった。鈴木さんは戦前2度も再割り当てのコールをもったことになり、この点でも珍しいケースといえた。

東京で鈴木さんはJ2KIとなりカードを作る

東京時代の鈴木さんのシャック