[研究部を発足させる] 

大学に入り、自由な雰囲気の中で鈴木さんは活発に活動を始める。学友3、4人で「無線工学研究会」を設立する一方「山岳部」を立ち上げる。実は鈴木さんは山登りについても経験は豊富であった。お父さんが日本山岳会の会員でもあり、単独初登攀記録ももっているらしく、鈴木さんは幼い時から連れられてしばしば山登りをした。

しかも、その山登りは多分に冒険的なものであり、「父は道があるところを登るのは当たり前。道なき場所を登るのが挑戦だ」と、無理を強いたという。このため登山には常に鉈(なた)を携帯し木の枝を払いながらの山登りとなったという。

[森村さんとの交流] 

お父さんは鈴木さんを自由にのびのびと育てたような節がある。受験勉強には障害となるアマチュア無線の先輩を、お父さん自らが探して鈴木さんに教えたことはすでに触れた。大学に入ったある日、またもやお父さんは「私の知り合いのご子息がハムであり、いろいろ教えていただいたらどうか」と森村喬(J2KJ)さんの名前を教えてくれた。鈴木さんの好きなことを支援された父親であった。

その森村さんとはJARL関東支部の例会で始めて会っている。「あなたが森村さんですか」と鈴木さんが尋ねると、森村さんも「鈴木さんのことは聞いていました」と答えたという。森村さんの祖父は「森村財閥」を築きあげた森村市左衛門さんの弟の豊(とよ)さんであり、明治の半ばに渡米し大変な苦労をしながら日本からの輸入品の販路を作り「森村財閥」をつくる上では、むしろお兄さん以上の貢献をされた人である。

森村さんについては、この連載の「あるアマチュアOTの人生」で詳しくそのハム人生を紹介したが、残念なことに今年(平成16年)3月になくなられた。鈴木さんは例会で森村さんの他、大河内正陽(J1FP、J2JJ)さん、蓑妻二三雄(J2KG)さん、石川源光(J2NF)さん、三好榮(J2MC)さん、湯山壽一(J2OI)さん、金子邦男(J2OX)さん、尾崎克巳(J2OP)さんらと親しくなる。

森村喬さん(前列右)。平成16年2月に亡くなられた

[レインボー会の名称] 

皆、同じ学生か年が近いこともあり急速に交流を深めることになる。鈴木さんが例会に出席するようになったのは昭和14年(1939年)からであるが、この例会はいつの間にか「レインボー会」と呼ばれるようになる。東京・内幸町の大阪ビル内にあったレインボー・グリルで例会が行われていたからである。

当時のことを戦後になって矢木太郎(J1DO、J2GX)さんが「Rainbow News」で、細かく説明している。それによると、昭和4年(1929年)ころの関東支部の例会は半田成一郎(J1DM、J2GW)さん、柳瀬久二郎(J1DH、J2GW)さん、矢木さんらの自宅で開かれていた。ところが翌昭和5年(1930年)になると、メンバーが10名を超え、外に会場を求めざるをえなくなった。

ある時、柳瀬さんはレインボー・グリルで開かれた会合に出席、「とても良い場所だった」と報告、矢木さんらは下見を兼ねて交渉に出かける。「その結果、2円の定食を1円にしてくれ、閉店時間も30分遅くしてくれることになった。きれいな一流レストランが破格な条件で使えることになった」と記している。その後、10年以上約100回、この場所が使用された。

毎回レインボークラブで開かれた関東支部のミーティング。昭和51年1月。2列目左から5人目が鈴木さん

[日本で第3位] 

DXに夢中になっていた鈴木さんは、昭和14年に米国のアマチュア無線雑誌「ラジオ」主催の「1939 ワールド・ワイド・DX・コンテスト」に参加し、日本で第3位の記録をもつ。日本の第1位は米田さん、第2位が齋藤誠次郎(J2NQ)さん。ちなみに第4位は奥山正(J2KN)さん、第5位は日村一義(J2NT)さんであった。

ただし、鈴木さんは「どのようなコンテストであったのか憶えていない。昭和15年に行われ、アジア地区で第3位と記憶していたがまちがいだった」という。恐らく、このコンテストは毎年実施されており、鈴木さんは翌年も参加したのではないかとたずねたが「参加は1回だけなのは確かです」という。

DXコンテストで日本3位を掲載した米国の主催雑誌「RADIO」

昭和15年(1940年)4月28日、大阪の染工聯会館でJARLの全国大会が開催された。鈴木さんも東京から出席している。この大会の出席者は31名。関西以外からは17名が参加した。JARLは翌年の4月29日に15周年記念大会を東京・新橋の蔵前工業会館で開催しているが、これが戦前では最後の大会となった。

昭和15年、大阪で開かれたJARL全国大会。2列目左から3人目が鈴木さん

[暗雲広がる世界情勢] 

日中戦争は、ますます戦線が広がり泥沼のような状況に陥っていったが、米国との関係も雲行きが怪しくなっていった。中国・重慶のUXOAさんと交信し、お互いにQSLカードの交換をし先方からのカードは届いたが、鈴木さんのカードは「3回も送ったが届かなかった。OAさんは"日本の官憲が悪い"と憤っていた」という。

このころ、カードの交換はきちんと行われ「交信したら7、80%帰ってきた。手紙や写真が入っているものも多かった」と、鈴木さんはいう。まさに世界のハムが「キング・オブ・ホビー」を楽しんでいた時代であった。米国から鈴木さんに届いた手紙には「日米の戦争が始まりそうであるが、私たちはフレンドシップを温めあおう。特別な友達だから」と書かれていた。鈴木さんの戦前の明るい思い出である。