[無線工学研究部の活動] 

大学では「無線工学研究会」がいくつかの活躍をしている。「昭和15年(1940年)夏休みを利用してラジオ受信機に興味をもっている学生を対象に、並4ラジオ製作の講習会を開いた」ことがあった。「秋葉原に出かけて部品を揃え、集まった約30名に“はんだ付け”の仕方を教えて組み立ててもらった。一台分が15円程度だったと思う」と鈴木さんはいう。

自作リグを前にキーを打つ鈴木さん。昭和15年

難しい組立て作業ではなかったはずであるが、それでも「配線が終わって、放送が聞こえるものは良いが、聞こえない組み立て品の問題ヵ所探しが大変だった」思い出をもっている。また、大学から依頼を受けて、校内の拡声器を作ったこともあった。「記念祭の行事では録音機を作ったこともあった」という。

もちろん、当時は磁気テープはもちろん磁気ワイヤーもない。アルミ円盤に蝋(ろう)を塗りつけた層を作り、レコード針で録音、再生させた。ラジオの組立て講習会にしても、録音実演にしても「好評だった」という。日本を取り巻く政情は不安定となりつつあるなかで、鈴木さんはそれなりに大学生活を楽しんでいた。

[開戦] 

しかし、アマチュア無線界は昭和12年(1937年)ごろから軍に協力を要請されるようになっていた。「国防無線隊」「愛国無線隊」などの名称が付けられ、陸軍の演習や防空訓練に加わり、無線機を使っての情報伝達の役割を果たした。また、軍用の通信機製作に駆り出されたりした。昭和18年(1943年)秋、鈴木さんらは、東大、早稲田、東工大、日大の学生とともに「電波報国隊」に組入れられる。

渋谷区恵比寿にあった山田電機で、軍用の無線機製作にも携わった。開戦とともに、アマチュア無線は原則として禁止される。東京では東京都市逓信局係官、東部軍通信参謀、JARLの代表が各局を巡回して通信機に封印を行った。JARLの代表は、昨年(2003年)の10月になくなられた香取光世(J2OV)さんらであった。

戦時中JARLのために活躍した香取さん。昭和15年4月

このころには、JARL会員の多くは、軍に召集されたり、軍事産業に就職し、会員不在に近い状態になっていたが、香取さんはJARLの面倒をみた方として知られている。戦後になって、香取さんは開戦前後の様子を記している。それによると、逓信局からは放送部長と係長、東部軍は軍司令部の参謀部通信参謀の中佐と少尉が巡回した。JARLでは香取さんのほか、三田義冶(J1GL)さん、栗山晴二(J2KS)さん、石川源光(J2NF)さんらが手伝った。

鈴木さんの所には逓信省の係官が訪ねて、リグに封印。さらに、後日香取さんと軍関係者が来て、部品や機材の提供を依頼した。香取さんは「鈴木さんには多数の部品を提供していただき感謝しています」と、とくに名前をあげて書いている。全国では、使用リグの寄付を依頼されたり、買い上げられたり、強制的に取り上げられたり、さまざまな悲喜劇があった。

[学徒動員] 

昭和18年(1943年)9月、「電波報国隊」の一員として鈴木さんは日本無線に動員される。そこでの仕事は海軍船舶用レーダーの送受信機の調整であった。水冷のマグネトロン管で3GHz、ピーク出力1KWを発射、水面上に突き出された潜水艦の潜望鏡からの反射波を受信するものであった。完成後の実験は東京・芝浦にあった東京電気の実験室から5km沖の海中から突き出た擬似潜望鏡を探知することであった。

鈴木さんは「新任の少尉の方に機械の取り扱い方、とくに敵の潜望鏡波形の検出法を指導したが、当時の機械操作には慣れが必要であった」という。その機械は潜水艦に搭載された。二週間後、海軍の大尉がやってきて「残念なことにイ号潜水艦が撃沈された」とこっそり知らせてくれた。鈴木さんは日本無線には昭和19年(1944年)3月までの半年働き、大学に戻ったが、20年(1945年)3月卒業の予定が半年繰り上げられ、19年(1944年)9月に卒業した。

[就職そして終戦] 

この年の10月1日、鈴木さんは住友通信工業(現NEC)に就職。再び海軍からの要請によるレーダーの研究部門に配属された。検波管はクライストロンを使用したものであった。詳しい戦況は知らされなかったものの、海軍からの要求から緊迫状態がわかり、敗戦続きではないか、と鈴木さんらは察していた。「クライストロンは完成度が低く性能を出すのに苦労した」という。

クライストロン。鈴木さんが使用した当時のものとは異なる

ある日、職場の近くの部門から大声で叱咤する怒声が聞こえた。海軍中尉が製品の検査に来たらしく、担当課長を叱り飛ばしていた。離れた場所にいた鈴木さんらも緊張せざるを得ない迫力だった。しばらくして、帰りかけた中尉を見るとレインボークラブで何度もあったことのあるハムのお1人だった。声をかけると、「バツの悪そうな表情だった。しばらくその方と話し別れたが、叱られた課長がやってきて“君の知っている人なのか”と聞かれた」ことを覚えている。

就職して3ヶ月も経たない12月25日に召集令状を受け取る。工学部を卒業し、軍需産業に従事している場合は徴兵を免れるのが当時、通例であった。鈴木さんも「関係方面に届けを出しており、召集はない」と上司に聞かされていたため「意外だった」と今でも思っている。配属されたのは本隊が広島にある船舶工兵の「石巻60部隊」。宮城県石巻にあった。昭和20年7月、鈴木さんは山口県・仙崎町に移動する。