配置された仙崎は当時の朝鮮から舟で運ばれてくる米、大豆の揚陸地であり、童謡詩人「金子みすゞ」の生誕地で知られていた。鈴木さんらは豊浦郡にあった粟野小学校に宿泊することになったものの、わずか1カ月半ほどで終戦を迎える。

昭和20年(1945年)8月14日、「15日に重大放送がある、といわれたがあいにく小学校のラジオが壊れていた。直せといわれ、慌ててラジオ屋さんを探してカップリングコンデンサーを入手して間に合わせた」という。終戦後の20日ごろ、瀬戸内海側の小郡に移動し、9月10日ごろに復員となった。鈴木さんの戦争も終わった。

溝の口之日本光跡の仮校舎--- 慶応義塾大工学部三十年小史より

[日本電気への復職] 

復員後、鈴木さんは住友通信工業に復職する。9月下旬、川崎市の武蔵小杉工場に行くと「週1度来なさい」といわれた。同社はほどなくして財閥解体にともない日本電気と社名が変更されるが、軍需産業もなくなり物を作ろうにも資材がなく、また国民も物を買い求める余裕がなかった。戦争で破壊された日本の産業経済は疲弊し、国民も経済力をなくしていた。当時の日本は後に、米国の支援がなければ2000万人が餓死した可能性もある、といわれたほどであった。

同社の工場の大半が爆撃で壊滅状態であり、残った工場でも生産は止まっていた。鈴木さんらは「残っている真空管を集めてラジオでも作ろうか」と相談したりした。ほとんど何もすることのない毎日が過ぎていった。そのころ、慶応大学から思わぬ話しが舞い込んできた。

[母校の復興を手伝う] 

慶応義塾大学も戦災を受けており、校舎も焼け、また、教授の何人かも戦争の被害を受けていた。加えて、戦後に日本を統治することになったGHQは「戦争犯罪人」として、軍部に協力した教授を追放しようとしていた。鈴木さんへの話は「大学の再建を手伝って欲しい」という依頼であった。工学部は鈴木さんらが一期生であり学部の再建に必要な人材でもあった。

鈴木さんは会社の課長に相談する。課長は「大学の教師になるのには覚悟がいる。会社の技術者の方が気が楽だ」と説得される。しかし、「会社にいても当面仕事はなさそうだ」と鈴木さんは悩む。決断がつかない鈴木さんを“引き取る”ために主任教授が会社にやってきて、退職について話し合ってくれて、やっと転職を決意する。

しかし、大学も状況は一緒であった。横浜市・日吉にあった日吉校舎は80%が焼けてしまっていた。約150年の歴史をもつ慶応義塾大学が日吉に校舎を設けることを決めたのは昭和5年(1930年)であり、校舎建設が終わり、授業を始めたのが昭和9年(1934年)であった。その後、校舎は増えたがいずれも校舎は堅牢なものであった。日本海軍はこの頑丈な建物と、東京と横須賀の中間点である立地条件に着目し、昭和19年に連合艦隊司令部をここに置いた。

日本海軍の中枢がおかれることになり、校舎や周辺の地下には強固な防空施設が網のように張り巡らされた。戦後、この施設は今度はGHQ(駐留軍)が接収して使用したため、工学部が使う校舎はなかった。それでも終戦の年の昭和20年(1945年)10月下旬に、目黒の旧海軍技術研究所のひと隅で授業が再開された。まず在校生に手紙を出し「出て来られる人は出てきて欲しい、と連絡したものの大半が出られないという返事を寄越した」という。

[授業再開] 

実験設備なども焼失してしまっていた。旧鉄道省の鉄道研究所からも設備を集めたりした。日吉校舎では米軍に頼み焼けたモーターや発電機を掘り起こし、銅線を巻き直して使った。やむなく、東京大学や東京工業大学と折衝して実験設備のある教室を使わせてもらったこともある。現在では考えられないことであるが、戦争のために中断されてしまっていた学ぶことへの意欲がそうさせたといえる。

翌昭和21年(1946年)3月、いよいよ新たに学生を集めることになった。戦後初の入学試験を行ったが「受験者の年齢は幅が広かった」ことを鈴木さん印象深く記憶している。受験生には軍に召集されたために、学業を中断していた元学生も多かった。「旧軍の少佐、少尉や、陸士、海兵の卒業生、専門学校卒業生もいた」という。陸士は陸軍士官学校であり、海兵は海軍兵学校のことであり、優秀な軍国少年のあこがれの軍事教育機関であった。

この募集は、戦時中、戦後の学制改革により、予科と学部との間に2年の空白ができ、それを埋める役目もあった。鈴木さんの立場は嘱託だった。再建の仕事は忙しかった。教科書などはなく本を作ろうにも、紙がなく資金もなかった。ガリ版で手書きし、謄写版で印刷したものがテキストとなった。

昭和30年頃の鈴木さん

[再び移転] 

ところが、わずか1カ月後の5月になるとオーストラリアの駐留軍がその技術研究所を使うことになり、出ていけといわれる。鈴木さんは上司と一緒にどういうわけか復員局にも出向き軍の使っていた施設を使わせてもらう交渉に行ったりした。「あちこち候補地を見て歩き」決定したのが川崎市の日本光学工業川崎製作所の跡地で、6月に移転した。日本光学は昭和63年に現在の「ニコン」に社名を変更している。

移転した場所に設備を揃えるために陸軍研究所から設備を払い下げてもらうことになった。その運搬用に旧陸軍のトラックを割り当てられた。「ところが運転手が少なく、また、高給であった。他の企業や大学に設備を持って行かれてはいけない、というあせりもあり、結局、私自身が運転免許を取りました」というような、あわただしいのか、のんびりしているのか、判断しにくいこともあったらしい。