[小岩井へ移転] 

しかし、ここにも長く留まれなかった。校舎にしていた建屋が授業をするのにふさわしくないため、より環境の良い次ぎの場所を求めて、当時はまだ、小金井町(現小金井市)だった横河電機の工場跡地に移る。昭和24年(1949年)の4月であった。溝の口から小金井まで、教材などを大八車に載せて学生とともに運搬した。大八車はリヤカーより古い時代からあった二輪車のことである。「トラックでも搬出したが、乗せきれなかったため学生とともに、崩れ落ちそうな荷物を押さえながら大八車を引いていった」と鈴木さんはいう。

戦後の食糧難、着る衣服にも困る時代であったものの、学生は学業に飢えていた。小金井に移った工学部はまず、教室の整備から始めた。椅子を作り、板に墨を塗り黒板を作り、電気工学科では秋葉原の電気店街に出かけ、実験に必要な部品を買い求めて自作した。「最初のうちは、授業の出来る環境作りのための労働で明け暮れたような気がする」と、鈴木さんはそのころのことを語る。

小金井の横河電機工場の敷地は、戦後手入れが行われていなかったため、草が生い茂り荒れるにまかされていた。学生達は運動するためその荒地の整備を始めた。草を引き抜き、ローラーで土地を平らにした。そのローラーもセメントを固めての自作だった。「割かた上手にローラーが出来ましてね」と、鈴木さんは60年近くも前の細かなことを思い出している。志木にあった東邦産業研究所に移っていた応用化学科もほどなくして小金井に集約された。

小金井時代の工学部正門--- 慶応義塾大工学部三十年小史より

[日吉に戻れず] 

昭和24年(1949年)鈴木さんは助教授に昇格した。その年、GHQは日吉の校舎から撤収していった。しかし、後に残った米軍のカマボコ兵舎を文科系の学部が使っており、工学部は戻れそうもなかった。「日吉は本来、工学部のものであったのに」と、工学部の不満は高まっていた。そのころ、当時の丹羽重光工学部長が「工学部が、このまま、軍需工場の跡地にいるくらいなら工学部はつぶれてもいい」といった言葉を鈴木さんは今でも忘れていない。

もちろん、日吉には校舎を建設する土地のスペースはあった。工学部の要請に対し大学からは「どんな建物にするか案を出せ」といわれ、約6600平米(約2000坪)の敷地に6階建ての校舎建設計画を提出した。建設資金は当時の大学には当然なかった。「だめだ、といわれ、昭和35年(1960年)に、再び建設計画を出すが、また、却下された」という。

ようやく日吉に戻れたのは昭和46年(1971年)であった。日吉の近く矢上台に藤原銀次郎さんが約66000平米(約20000坪)の山を所有しており、そこに工学部の建設が決まったのが昭和44年(1969年)であった。東横線日吉駅から慶応日吉校舎(現日吉キャンパス)を通りすぎ東にわずかに行った所であり、2年間かけて校舎が完成、現在は矢上キャンパスと呼ばれている。

戦後、再建が始まってから25年もの間、転々とした校舎は元の場所近くに戻った。この間、朝鮮動乱があり、対日講和条約が結ばれ、昭和39年(1964年)には東京オリンピックが開かれた。45年(1970年)には大阪で万博が開催され、日本は打ちのめされた戦争の痛手から完全に復興を遂げていた。鈴木さんも昭和42年(1967年)には教授にのぼり詰めていた。「思えば長い道のりであった」と鈴木さんは4半世紀を振りかえっていう。

工学部が日吉に戻ったころの鈴木さん

[アマチュア無線] 

鈴木さんの勤務先である慶応大学工学部の再建について長々と書いてきたが、鈴木さんは戦後、助手になった時、学生時代に自ら設立した「無線工学研究会」の顧問に就任した。しかし、これまで書きつづけてきたように再建のための事務やら労働のために、研究会の面倒を見る事はできず、また、戦後、再開されたアマチュア無線の免許の取得もできなかった。

それでも、アマチュア無線に熱心な学生は多かった。年1回の研究室の合宿は志賀高原で行われるのが習いになっていた。昭和40年ころになると車の普及が進み、車を連ねて出かけるようになると、前後の連絡をアマチュア無線でやるようになった。15名から20名の研究室であるが、毎年数名のハムがいた。

鈴木さんは自らは免許を取らなかったが、学生には「君達は卑しくも電子工学を学ぶ立場である。電話級とか、2級で満足していてはいけない。1級にチャレンジすべきだ」と激励した。「無線工学研究会」も日吉に移転したのを契機にアンテナをあげ、クラブ局JA1YCGを発足させた。学生からは「先生も戦前のハムだったのだから、一緒に免許をとりましょう」とおだてられて、昭和52年(1977年)に2級の免許を取得する。

[マナスルに無線機] 

アマチュア無線と同様、鈴木さんが学生時代に発足させた「工学部山岳部」も、戦後に大学に奉職してすぐに会長となった。その後、戦時中から部長を務めていた教授が退いたため、鈴木さんは部長を引きうける。鈴木さん自身は、先に触れたとおり再建の仕事に翻弄されたため、自由に登山をすることができなかった。

鈴木さんの思いではいくつかある。昭和31年(1956年)春。槙有恒隊長の日本山岳会第3次マナスル隊は、マナスルの初登頂に成功する。この時、工学部山岳会のOB1人が加わっており、鈴木さんのところに連絡用のトランシーバーを依頼してきた。当時の日本には携帯用トランシーバーはなかった。

鈴木さんは、小金井にあった郵政省の電波研究所に友人を訪ね相談する。「結局、米軍に依頼し携帯機3台の提供を受け、八木アンテナを作り実験。十分に利用できることを確認して渡したことがあった」という。マナスル初登頂は戦後の日本が世界に伍していける力を与えてくれた出来事でもあった。

鈴木さんは1977年に免許を取得、JP1JCKのQSLカード