山岳部の話しをもうひとつ。平成2年(1990年)山岳部は日本山岳会の指導により、他大学との共同でアラスカのマッキンリーに登山する。目的は自動気象観測装置の設置であった。マッキンリーは北米大陸の最高峰であり、昭和59年(1984年)に冒険家の植村直己さんが冬山単独登頂に初めて成功し、下山途中に亡くなった山として知られている。強風に吹き飛ばされたのが原因ともいわれていた。

山岳部が共同で観測装置を設置したのは「年間を通じて、強風の実態をつかむことであリ、それによって地球の気象観測に役立てることが目的であった。実験はその後も継続的に続けられた。工学部の山岳部が選ばれたのは観測装置や、観測されたデータを無線伝送する技術をもっていたためであった。

[岳人としての誇りを] 

鈴木さんは同山岳部のOB会長を平成5年(1993年)まで務めた。会長時代の昭和57年(1972年)に発行された同山岳部の機関誌「嘯雲」第4号に、思い出を寄せている。戦争中の登山は「引け目を感じ、切符の入手、食料の確保に苦労をしたものの、山は静寂そのものであった」と振り返る。

「町には無数の山岳会、同好会が生まれている。しかし工学部の学生は増加したものの逆に山岳部に入部する学生は減っている」と悩みも訴えている。寄稿の最後には次ぎのように山への情熱を記している。少し長いが引用する。

大学山岳部の山の登り方、考え方はその時、その時、その時代で変わることはあっても、山を愛し、自然を愛する気持ちは常に同じであり、部員同志の友情を培うのみならず、他人に対する心優しい思いやりと、自然破壊に対する毅然たる態度と、岳人としての誇りをもってもらいたいものである。確固たる山登りの哲学をもって世界の隅々を歩いて欲しいと願うこと切である。

工学部山岳部が40周年を記念して発刊した「嘯雲」第4号

[大変転の電子技術] 

再び、鈴木さんの教育生活に戻る。鈴木さんが教壇に立ってからの電子技術の進展はかつてないほどのめまぐるしさであった。その最大のものが真空管から半導体への変転であった。ゲルマニウム、トランジスターの登場はラジオ受信機、その後のテープレコーダー、ビデオテープレコーダーを小型化した。単に小型化しただけではなく、製品そのものの高性能化を促進した。さらに、それに続くデジタル機器は半導体革命によって成し遂げられたといって良い。

真空管が生まれてから約45年後に登場した半導体は、その後の約10年でICの開発につながり、デジタル技術によりICが電子機器の頭脳となった。このデジタルICはメモリー、制御の役割をもち始め、その結果としてAV(オーディオ・ビデオ)製品のみならず情報機器までも電子化してしまった。その結果、AVと情報機器、通信機器が統合され、その代表的なものが携帯電話といわれている。

ポケットに入るサイズの製品が、言葉、データ、画像までもやり取りし、蓄積(記録)してしまうのが今日の姿である。半導体が登場してわずか約50年の劇的な変化である。すでに10年前に今日の携帯電話の要素技術は解明されていたことを思うと、鈴木さんが慶応義塾の教壇に立ち続けた約40年はまさにこの劇的変化の時代の40年であったといえる。

[半導体を極めに米国へ] 

1947年米国でゲルマニウム整流器が製造され、翌48年には点接触のトランジスターが、1950年には接合トランジスターが開発され、半導体時代が始まった。小金井の校舎での授業が軌道に乗り出したころ鈴木さんは、半導体を知る。トランジスターの開発者であるショックレーが書いた「エレクトロン・アンド・ホールズ・イン・セミコンダクター」を入手してテキストにした。

しかし、鈴木さんはそれを読んで「米国に行って勉強するしかない」と、米国留学の道を模索する。鈴木さんが見つけたのは「フルブライト奨学生制度」。昭和28年(1953年)に米国が世界の青少年のために資金を出して、米国で学んでもらうことを目的に開始したもので、鈴木さんは昭和30年(1955年)の第3回に応募して選ばれた。この年は3000人の中から150人が渡米した。

[ペンシルバニア大学] 

鈴木さんが留学したのはフィラデルフィアにあるペンシルベニア大学であった。出発に当たって慶応義塾大学は「人手が足りない。早く帰って来い」といわれていた。1年の期限である。寮は2人部屋、前の部屋にも2人おりいつも4人で行動した。それが英語の力をつけることになった。

ペンシルベニア大学寮同室の4人と

主任教授のレナード先生は毎月レポートの提出を義務付けられており、初めのころは同僚に添削してもらっていた。当然、先生には添削してもらっていることがわかる。先生に呼ばれ「これはあなたの英語ではない。大事な事は文のうまさでなく何を伝えたいかである。自信をもって自分の英語で書きなさい」と注意される。

後年、鈴木さんは米国の雑誌に研究成果を投稿するが「この時の注意が自信となり、掲載されることが多かった」という。勉強以外でも仲間と良く議論した。米国の学生は「日本のハワイへの奇襲攻撃はけしからん」という。私は戦後の軍事裁判について「勝者が敗者を裁く裁判はおかしい」と主張した。この主張には、他国からの留学生のみならず、米国学生の80%が賛成してくれた」という。

同大学の自室の机で