[留学生活] 

ペンシルベニア大学での留学生活は、学業は厳しかったものの生活は楽しかった。おもしろかったのは、ドイツからの留学生のプライドの高さであった。彼は「今更、米国に学ぶべきものはない。金をくれるというから来てやった」と豪語。鈴木さんには「お互いにもう少しうまくやれば(第2次世界大戦)戦争に勝てた」と同調を求めてきた。鈴木さんは「返事に困った」という。

「インドからの留学生は“八方美人”で、要領が良かったですね」と鈴木さんは、このころの話しを続ける。日本人に親しみをもっており「米国はけしからん」と口を極めていう。事実、戦後に行われた太平洋戦争の戦争犯罪人を裁く「東京裁判」では、インド代表判事で、カルカッタ大学総長のパールさんは日本の立場を支持し「勝者が敗者を裁くのは誤り」と強力に主張した。しかし「そのインドの留学生は、米国の学生には逆のことをいっていた」ことを鈴木さんは知った。

大学の地元には留学生を世話する組織があり、時々パーティを開いてくれた。休みには友人の自宅に泊りに行ったこともある。「夏休みにはグループで長距離バスを利用して、研究所や企業の工場を見学したのも懐かしい」という。生活は余裕があるわけではないが「何とかやっていけるだけの資金をいただいていた」らしい。

昭和58年に開かれた学会の懇親会で挨拶する鈴木さん

[帰国] 

翌年、約束通り鈴木さんは帰国する。授業内容は徐々に真空管から半導体に切り替えていった。鈴木さんは若かったこともあり、真空管から半導体への変転に対応し「昭和40年(1965年)ころには電子回路の中心は半導体になってしまった」時代の動きの先端を走ることができた。しかし、このころ企業でも大学でも年輩者は、半導体革命についていけずに苦労していた。

日米の半導体技術の格差は「その後も縮まらなかった」と鈴木さんは残念がる。その後、エサキダイオードなど日本人による発明もあったが、溝は埋められず、わずかに生産技術の力によりIC生産で世界を支配する時代を作り出した。昭和60年(1985年)鈴木さんは半導体メーカーに勤めている教え子を訪ねたことがある。

その社員は、鈴木さんに報告した。「先生、日本の半導体技術は世界のトップです。もう怖いものはありません」と。鈴木さんは厳しく叱った。「そんなことをいうあなたは、実情が見えていない。量産技術が優れているだけであり、本質的技術は遅れている」と。事実、その後、メモリーとして使用するD-RAMの生産は世界のトップの座から滑り落ちてしまった。

[日米の研究態度の差] 

かつて、ある研究者が「日本人は第2次創造性に優れている」と定義したことがある。第1次創造性は「基礎的・要素的な技術開発」を意味し、第2次創造性はその技術を量産品に仕上げたり、その技術を利用して製品を作ったりする「応用開発」のことである。このように日本人の特性を喝破した、この研究者は「第2次創造性に優れていることも立派なことである」と語っていた。

鈴木さんもこの説に同調するという。しかし、この違いはどこにあるのだろうか。鈴木さんは「若い時からの自己主張の強さ、自分を生かすテーマ選びの差にもあるのでは」と指摘する。米国留学中に鈴木さんが何度か見たシーンがある。「欧米の学生は、選択した研究分野でも手掛けてみて、自分に合わないと判断したら、惜しげもなく方向転換してしまう」という。

「日本の学生は1度選んだ道は、せっかく選んだのだからとあまり興味がなくとも続けることになる。ところが、彼らは“面白くないことをやっていても仕方がない”と、潔く別な道を選択する」と分析している。したがって「自分に興味のある道を進むだけに意欲をもって夜昼なしに研究に没頭する人が多い」と鈴木さんはいう。

[大学再訪問] 

当時の留学生との交流は、その後も続いている。昭和40年(1965年)に、鈴木さんは日本の4大学の教官達と合同で欧州の研究所見学に出かけた。その折に、ドイツのアーヘン大学にいるメンヒさんを訪ねた。メンヒさんは自宅に招待してくれて、ご両親ともお会いした。

昭和42年(1967年)鈴木さんは、ベンシルベニア大学を12年ぶりに訪れる。「懐かしい寄宿舎も訪ねたが、かつて男女がお互いに入ることのできなかった規則が廃止されていた」という。あいにく、夏休みであり、同大学で行われていた学会の出席者の宿舎に使われているため、かつての部屋には入れてもらえなかった。

昭和40年、アーヘン大学にいたメンヒ(左端)さんと再開する。お父さんとお母さんと一緒

[戦後のアマチュア無線との関わり] 

長々と、慶応義塾大学の教授生活について書きつづけてきたが、アマチュア無線との接触はどうであったのだろうか。戦後のアマチュア無線再開時には当然、鈴木さんにも呼びかけがあった。戦後すぐに、再開運動を進めていたJARL会員の1人である大河内正陽(J1FP/J2JJ)さんから「再開についてGHQ(進駐軍)に嘆願に行くので、一緒にどうですか」との電話があった。

鈴木さんは「申し訳ありませんが、戦災の被害を受けた大学の復興のために多忙です、と断らざるをえなかった。お手伝いができなかった」と、鈴木さんは今でも恐縮している。昭和22年(1947年)ごろ、香取光世(J2OV)から連絡があり「陸軍が放出した無線機器があるので取りに来ませんか」といわれた。

香取さんは、戦前に鈴木さんがアマチュア無線機や部品を軍用に寄贈されたのを覚えていてくれたらしく、代わりに軍用通信機や関連部品を返そう、と気遣ってくれた。鈴木さんは「ありがたいことですが、今は、無線どころではなく当分できないと思いますので」と、その好意も断った。