[Rainbow会発足] 

先に触れたように昭和51年(1976年)に鈴木さんは再びハムになったが、教育に追われ、特別な時にせいぜい携帯のトランシーバーを使う程度であった。鈴木さんが、本格的にハムの仲間と交流を開始したのは昭和61年(1986年)であった。鈴木さんはかねがね「退職したらハム活動を始めよう」と考えていたが、その退職を翌年に控えていた。

昭和48年(1973年)に、戦前のハムだったメンバーを集めた「Rainbow会」が発足する。大河内正陽(戦前J1FP/J2JJ)さん、矢木太郎(J1DO/J2GX)栗山晴二(J2KS)さん、篠原健(J1DV/J2HV)さんが中心になって始められたといわれている。古い名簿をコールブックを頼りに全国に呼びかけたが、住所が変わっている人も多く周知徹底は難しかった。

会名の「Rainbow」は、戦前にJARL関東支部がミーティングを開いていた「レインボーグリル」から決められた。戦前のハムへの呼びかけは徐々に効果が現れ、会員は増えていった。ひとつには、戦前のハムも定年を迎え会合に参加する余裕が出てきたこともあった。昭和57年11月に開かれた総会では会則が決められ「Rainbow News」も発行されるようになった。

Rainbow会で挨拶する鈴木さん。左は森村さん、右は荒木さん

[57年度総会] 

その創刊号が手元にある。総会は神田の学士会館で開かれ、35名が出席した。6時の開会を待ちきれず、5時前から続々と集まりだしたという。57年度の役員に矢木さん、三田義治(J1GL/J2IS)さん、清岡久麿(J2KQ)さんの3人、58年度の役員に大河内さん、篠原さん、齋藤健(J2PU)さんが選出された。

この時の出席者については、後に貴重な記録となると考えて列記しておく。順は不同である。昭和9年(1934年)2月にJ1エリアはJ2エリアに変更されたため、その時点で免許保持者は全員がJ2コールとなっている。

青木正二(J1ED) 石川源光(J2NF) 茨木悟(J1FQ/J2IH)篠原、大河内、大津太郎(J2KC) 奥山正(J2KN) 梶井謙一(J3CC) 香取、金子邦男(J2OX) 清岡、栗山、齋藤、柴田俊生(J2OS) 渋谷兵衛(J7CT) 高崎暹(J2XA) 田母上榮(J7CG/J2PS/MX3H) 塚田正剛(J1FM/J2HQ/J6CJ) 西丸政吉(J6DX/J2MN) 橋詰春雄(J1EA/J2HD) 林一太郎(J1EI/J2HK) 日村一義(J2NT) 藤尾八十冶(J1JH/J2IA) 牧野健一(J2KX) 蓑妻二三雄(J2KG) 宮澤寛(J2LM)村井洪(J2MI) 森村喬(J2KJ) 森本重武(J1FT/J2IJ) 矢木、山田榮(J1FZ/J2IM) 湯山壽一(J2OI) 吉岡司郎(J5CI) 米田治雄(J2NG)詠村昇(JXCX/J1CZ/J2IL)

[鈴木さん入会] 

最終的には会員は約180名にもなり、戦前にアマチュア無線から去っていった人、それまでにサイレントキー(故人)となった人以外のほとんどが加わった。鈴木さんが初めて参加したのは昭和61年の総会であった。40年ぶりに懐かしいハム仲間との会合であった。出席した鈴木さんは戦前のハムの元気さに衝撃を受けた。

鈴木さんは65歳半ばになっていたが、80過ぎの仲間が北海道や九州から参加されている。「戦前、コールサインは薄々知っていたが、交信したことも、お会いしたこともなかった方がかくしゃくとしておられ、また、電波を出している。戦前、満州にわたっていた田母上榮(戦前J2PS)さんとは、そのころ海を越えて交信したことがあり、会えたのは感激だった。

さっそく、翌62年度の世話役に大津太郎(戦前J2KC)さん、松永茂俊(同J8CA)さんとともに選ばれ、総会を取り仕切ったり、Newsの編集に携わった。鈴木さんは、この情景を見て「私は若いのだ。もう1度挑戦しようと」の気持ちを深めたが、実際に取り組むまでは時間がかかった。

「退職後は再びハムに」と考えていた鈴木さんであったが、近くにあった関東学院女子短期大学の経営情報学科の教授に就任した。同短期大学では汎用コンピューターの導入に当たって、ソフト開発を慶応義塾に依頼してきたためである。同時に、女子大生にコンピューターの教育を行い、結局70歳まで勤務してしまった。容易に電波を出せなかった理由である。

平成6年のRainbow会での集合写真。後列左から3人目が鈴木さん前列中央が矢木さん

[深まる戦前のハムとの交流] 

「それでも、「Rainbow会」入会を契機に鈴木さんは再び仲間との交流を深め始め、世話役となった3人と矢木太郎(戦前J2GX)さんのシャックを訪ねた。その時のことを含めて矢木さんの思い出を、サイレントキーとなった矢木さんへの追悼文として次ぎのように記している。

高さ20mを超えると思われる八木アンテナが空にそびえていた。シャック内にはトランシーバーとリニアアンプがあり、電源が入るとゴーというファンの音がした。不思議に今でも耳に残っている。壁にかかったたくさんの賞状、私には何の物だったかの記憶がない。しかし、WASのほか、アメリカの全郡アワードに挑戦しているお話をされていた。当時VHFの携帯しか知らない私にとって、HF帯のシャックのすごさに圧倒されたものである。

[矢木さんの思いでは続く] 

昭和62年(1987年)に年1回の「Rainbow会」だけでは物足りないメンバーは、年10回のDX会を発足させたが、その後の5年半の間、矢木さんは病気の時を除いてほとんど欠席されず皆勤に近い。入院中の仲間があるとの話を聞かれると、即座に出席者の署名を求められて、見舞い代わりに送られた。