[JA3GM開局]

無線従事者免許を取得した加藤さんは、開局するバンドを7MHzと50MHzに決め、両バンドの装置の製作に取りかかった。まずはコリンズタイプの受信機、そして送信機、クラップ発振のVFO、変調器、電源器など全て自作した。部品は、「京都ではあまり手に入らなかったため、ほとんど大阪日本橋まで買いに行った」と言う。

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開局当時のJA3GMのシャック。

また苦労して書き上げた開局申請書は郵送せず、当時、大阪市内の天王寺にあった 郵政省近畿電波監理局(現総務省近畿総合通信局) まで、自ら持参して提出した。その時も、国家試験を受験した時と同様に、自転車で大阪まで出かけた。大阪-京都間の距離は40Km以上あるが、18才であった加藤さんには苦にはならなかった様だ。1954年6月22日、落成検査の日、 近畿電波監理局からは、技官2名、事務官1名、運転手1名の合計4名が検査にやって来たという。検査には問題なく合格し、加藤さんはJA3GMの本免許を得た。

ファーストQSOは7MHzで、相手はロシアの局だったことを憶えている。50MHzでは超再生式受信機を使ったが、これは意図的に常に発振させる方式のため、受信機ではあったがアンテナから微弱な電波が出ている。当時50MHzを運用していた局はほとんどの局がこの方式の受信機を使っていたため、狭い京都市内のこと、50MHzを受信すると、この方式のデメリットを逆に利用し、その微弱な電波を受信することで、「何局がワッチしているか分かってしまった」と笑いながら語る。加藤さんはこの受信機を使って、南米の局とも交信できたことを憶えている。

[和文モールス]

高校卒業後、加藤さんは自宅から歩いて通える至近距離にあった同志社大学工学部電気工学科に入学した。従って、加藤さんは学生時代、電車やバスで通学したことは一度も無かった。そのため、無線につぎ込める時間は十分にあったことが想像できる。大学入学後も7MHzと50MHzによるQSOに明け暮れる傍ら、平行して和文モールスの練習を始めた。理由はもちろん、第一級アマチュア無線技士(1アマ)のライセンスを取得し、14、21、28MHzに出て、海外通信(DX QSO)を楽しみたかったからである。

当時の1アマ試験は、1次試験で無線実験と電気通信術、2次試験で電波法規と無線学の4科目が科せられていた。また、電気通信術は、和文が1分間50字の速度で、5分間のモールス符号の送信および受信、欧文が1分間60字の速度で、こちらも5分間のモールス符号の送信および受信という内容であり、ハードルは高かった。欧文モールスについてはSWL時代の経験からすでにマスターしていた加藤さんは、和文モールスを重点的に練習したわけである。

1アマの勉強に加え、加藤さんは外国語も勉強した。当時の工学部の第二外国語はドイツ語であったが、日々アマチュアバンドをワッチしていた加藤さんは、世界的には英語とスペイン語がよく使われていることを知っていた。そのため、第二外国語は「ドイツ語に加えて、スペイン語も選択した。スペイン語の選択はその後大いに役立った」と話す。

[1アマを受験]

モールスの練習場所は、家が神社であった西脇弘長(JA3AN)さんが提供してくれた。生徒として、加藤さん、藤永正恒(JA3IS)さん他数名が集まった。先生は電電公社(現NTT)の職員で、プロの通信士であった。受信ができれば送信については何とかなるため、「受信を徹底時に練習した」と言う。ただし、先生が使ったのは低周波発信器ではなく、音叉のようなサウンダーであったため、「まずはその音にそれに慣れるのに時間がかかった」と笑って話す。

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昭和32年9月期の1アマ国家試験の受験票。

1957年9月、加藤さんは1アマ試験に挑んだ。試験会場は大阪府守口市にある大阪電気通信高等学校(現大阪電気通信大学高等学校)であった。結果は1度で合格を果たし、10月21日付けで第一級アマチュア無線技士無線従事者免許証を手にした。加藤さんはすぐに運用バンド増加のための変更申請を行い、変更検査もパスして14、21、28MHz帯にオンエアできるようになった。ここから、加藤さんのDXerとしての活動が本格的に始まった。

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1アマの無線従事者免許証。パンチ穴が空けられているのは、平成19年に再交付を受けたため。

[28MHzをメインに運用]

加藤さんが大学生だった1957年から1958年にかけては、観測史上最大と言われるサンスポットサイクル19のピークが到来していた。そのためサンスポットナンバー(太陽黒点数)が200を超える日も多く、HFでは一番高い周波数である28MHz帯でも連日海外局が入感。珍局も多数入感した。この頃加藤さんは、この28MHzを好んで運用していた。14MHzや21MHzでのDXは誰でもやっているからという理由だった。

そのために、加藤さんは28MHz用に3エレ八木アンテナを作った。当時、アルミパイプの入手は現在のように容易ではなかったため、ブームは竹竿、エレメントには、カーテン用のレールを使った。28MHzとはいえ、当時HF帯でビームアンテナを使っている局は多くなく、さらに、諸外国と比較すると日本のハム人口自体がまだまだ少なかったため、一旦オンエアすると「そりゃもう呼ばれまくった」、さらには、「交信した海外局からは、QSLカードがダイレクトで山のように届いた」と当時を語る。

さらに加藤さんは、上記28MHz3エレ八木アンテナのブームに、21MHz用に2本の垂直エレメントを取り付け、垂直2エレ八木として動作するように改造した。偏波を90度ずらすことにより、相互の干渉を避けた2バンドアンテナである。「21MHzのドリブンエレメントは3導体とし、割り箸をパラフィンで天ぷらにしたものをスペーサーとして使った。SWRはツインランプ方式で確認した」と話す。加藤さんは、その頃たびたびアマチュア無線雑誌に珍局との交信レポートを送っては掲載された。

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3エレ八木アンテナを調整中の加藤さん。

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21MHz用の2エレワイヤーを追加し、2バンドビームとした。