JA3GM 加藤 勉氏
No.3 就職する
[ラジオ番組に出演]
加藤さんが大学生だった頃、ラジオ京都(現KBS京都)で、「DXタイム」というアマチュア無線に関するラジオ番組をやっていた。パーソナリティは齊藤醇爾(後にJA7SSB)さんが務めており、加藤さんはその番組をよく聴取していた。ラジオ京都は1951年12月24日、京都放送として全国の民放局としては5番目に開局した歴史のあるラジオ局で、後年にはテレビ局も開局した。ちなみに同じ日にはラジオ東京(現TBSラジオ)も開局している。
ちょうどその頃、NHKの京都放送局内にも、アマチュア無線やっているプロデューサーがおり、アマチュア無線に関する番組を作ることになった。番組の内容は、出演者が海外通信に関することを語り合う座談会にすることが決まり、当時、京都市内で特にDX通信にアクティブであった加藤さんと、橋本正彦(JA3DY)さんに声がかかった。
橋本さん(左)と加藤さん(右)。
加藤さんは橋本さんといっしょにその番組に出演した。今でも憶えている内容は、「アマチュア無線は人種、国籍、宗教、職業など超えて色々な人がやっている。たとえば、一般人であれば、絶対に話す機会など無いサウジアラビアの皇太子だってハムなので、我々でも交信するチャンスがある。」「ただし、共産圏のハムは、資本主義圏のハムとの交信を禁止しているので、なかなか交信チャンスがなく難しい」、といったことを話した。
その放送の後、警察から「あなたはソ連(現ロシア)とも交信しているそうだが、どんな内容を通信しているのか」と聞きに来たことがあった。これはおそらく三橋事件(ソ連に買収された日本人のスパイが、ソ連と無線通信を行っていた事件)の関連で調べていたのではないかと加藤さんは考えている。
加藤さんの開局当時のQSLカード。
[NHKに就職する]
小学生の時に鉱石ラジオを持って外出し、たまたま局舎を見つけたことと、アマチュア無線のラジオ番組に出演したことが、「将来の就職先へと導いていたかも知れない」と語る加藤さんは、大学4年の時、NHKの就職試験を受けた。NHKの他に民放も数社受験はしたものの、あくまでも第一希望はNHKであり、「民放には行く気がなかった」と言う。1960年、同志社大学を卒業した加藤さんはNHKに就職し、京都放送局に配属された。
加藤さんが受験した1960年のNHK入社試験問題。
NHKに就職して半年後、加藤さんは金沢放送局への転勤を命じられた。金沢では寮生活だったため、京都の実家に帰省したとき以外はアマチュア無線ができなくなってしまい、一時的にアクティビティが下がった。そのため、当時DX界を席捲していたドン・ミラー(W9WNV)さんやガス・ブローニン(W4BPD)さんによる一連のDXペディションの多くを取り逃がしてしまったが、「食っていくためには、仕事を一生懸命やるしか無かった」と話す。
ちょうどその頃、商業放送の世界ではカラーTVが普及し始めた時期で、加藤さんはTV送信所で、「送信機のカラー調整を毎日の様にやっていた」、と当時のことを思い出す。「ちなみに、TV送信機の終段管には空冷管を使っていた。水冷にすると水の取り扱いが大変なためだ」と説明する。
中継局のメンテナンスにも出動した。
[ラジコン飛行機]
金沢放送局での勤務時代、加藤さんはラジコン飛行機を自作した。飛行機のコントロールには14MHzの微弱波を使ったが、14MHzといえば世界規模で交信ができるアマチュアバンドであり、「電波が地球の裏側まで飛んでいってしまわないかと、心配していた」と笑う。ちなみにエンジンには排気量2ccぐらいのディーゼルエンジンを使った。
加藤さんは一度、このラジコン飛行機に搭載した受信機のスイッチを入れ忘れたまま飛ばしてしまったことがあった。そのため、飛行機は上空でノーコン状態となってしまった。幸いにも方向舵が少しだけ曲がっていたため、飛行機は大きな円を描いて燃料が無くなるまで飛び続けた。加藤さんは自転車で飛行機の後を追いかけ続けた。最終的に、飛行機は燃料を使い切って金沢市街を外れたところの田んぼに墜落した。「これが笑いで済まさせるほど、当時はまだまだのんびりしていた」と笑う。加藤さんは、ラジコン飛行機以外にも、この頃TV受像器も自作した。
[結婚]
また、加藤さんは、金沢時代に奥様も射止めた。奥様は、加藤さんの職場であったNHK金沢放送局の近くにあった会社で働いており、通勤電車の中で知り合った。当時、NHKでは早朝に農業関係の番組を放送していたが、奥様のお父さんは農業関係の役所に務めている関係で、たまたまその番組に出演していた。加藤さんがNHKの職員だったために信頼され、「結婚に対しての反対は全く無かった」と言う。
その後、加藤さんは2人の子女を持つことになるが、奥様も含めて、「アマチュア無線には全く興味を持ってくれなかった」と言う。加藤さんが好きな電信は特にうるさがられていた様だ。興味のない者にとってはただの雑音にしか聞こえないため、もっともな話である。それでも電話はまだましだったと言う。加藤さんが英語やスペイン語で海外と交信するので、「ある程度は理解が得られたのではないか」と話す。