[大阪に転勤]

1970年、加藤さんは大阪放送局に転勤を命じられた。金沢では寮生活だったため、満足な無線活動ができなかったが、奈良県大和郡山市に自宅を購入したのをきっかけに、本格的にアマチュア無線活動に復帰した。まずは15mのクランクアップタワーを建設し、14/21/28MHzの3エレメント・トライバンド八木アンテナを設置した。

1970年の大阪と言えば、日本万国博覧会(別名 大阪万博 EXPO'70)が開催されたが、加藤さんには会場内での仕事があった。BBC(The British Broadcasting Corporation 英国放送協会)の展示館で、本国からの電波を受け、それを再放送するための設備構築を担当した。「短波なのでフェージングはあるしマルチパスもある、アマチュア無線とは違って、公共放送なので穴を空けることは許されず、それが大変だった」と話す。会期中は、プレスパスと言われる取材証で入場することができたため、一般客の長蛇列を横目に、会場には簡単に入場できたと言う。

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大阪万博のプレスパス。

大阪への転勤後は、送信所とスタジオでの勤務が半分半分ぐらいになったが、地方にある中継所や無人送信所にも機器のメンテナンスでよく出張した。中継所が設置されているところは概してロケーションが良いので、アマチュア無線でもV/UHF帯などを運用すれば抜群に飛ぶが、加藤さんは、仕事は仕事と割り切り、アマチュア無線の運用は一度も行わなかった。

[タワーとアンテナをグレードアップ]

その後、加藤さんはタワーをグレードアップし、アンテナも4エレメント・トライバンド八木に取り替えた。その他7MHzには逆V型ダイポールやデルタループを設置し、対応バンドを増やした。さらに、加藤さんは28MHz専用の4エレモノバンド八木も追加した。そのため、一番好きだった28MHzでは、「トライバンド八木とモノバンド八木の2本体制となり、いろいろな実験ができた」と話す。

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当時使用していたアンテナ群。

[海外局とのアイボールQSO]

この頃、加藤さんは、京都、奈良に訪れた外国人ハムと、積極的にアイボールQSOを行った。この一部を紹介する。まずは1980年、カリブ海に浮かぶ米領バージン諸島から世界的に有名なDX’er、ジョン・アクレー(KP2A)さんが奥様同伴で来日し、観光で奈良にやって来た。加藤さんは、NDXAのメンバーであった原田洋二(JA3CSZ)さんらと、観光案内を行った。

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左からKP2A、KP2A-XYL、JA3CSZ、JA3GM。

1983年、オランダ人のDXペディショナーであるガイド・バーグ(PA0GMM)さんが来日した。加藤さんはバーグ氏を自宅に招いて歓待した。ちなみにバーグさんがアフガニスタンからの運用したYA1DXと加藤さんはQSOしている。1984年には、バチカン市国からエドモンド・ベネデッティ(HV2VO)さんが来日した。ベネデッティさんはバチカン天文台の職員で、天文関係の学会に出席するために京都を訪れたのだった。加藤さんは、故平田真治(JR3CQC)さん宅にてアイボールQSOを行った。

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ベネデッティ(HV2VO)さんと加藤さん。

[海外勤務]

加藤さんは、NHK時代に2度の海外勤務を経験している。1回目はスリランカへの派遣であった。1982年、技術指導の目的で、加藤さんはスリランカへ飛んだ。現地では、JICA(国際協力機構)のシニアエンジニアとして1年間滞在し、TV放送やラジオ放送に関する技術の指導を行った。

スリランカに滞在している間、加藤さんは4S7MXとして現地からアマチュア無線を運用していたスウェーデン大使館員のロルフ・サルム(SM5MX)さんとしばしばアイボールQSOを行った。サルムさんの奥様が日本人であったこともあり、「すぐにうち解けることができた」と言う。サルムさんからは、「源氏物語はどういう人が作ったんだ」といった突っ込んだ質問をされ、面食らったことを今でも覚えている。

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4S7MXを運用するラルフ(SM5MX)さん。

当然、加藤さんもスリランカでアマチュア無線免許を入手すべく手を尽くしたが、日本とスリランカの間に相互運用協定はなく、簡単には下りなかった。それでも加藤さんは粘り強く交渉を続け、「帰国間近にようやく4S7/JA3GMの運用許可を得ることができた」と話す。

[インドネシア]

1987年にはインドネシアに派遣された。現地では、マルチメディアトレーニングセンターに配属され、主に国営放送局での技術指導を行った。送信機の調整はもちろん、スタジオでのカメラワークや、照明まで指導した。日本では、VTRの操作や編集の仕方は、加藤さんの専門ではなかったが、派遣前に研修を受けて習得した。インドネシアではVTRがよく壊れて修理したが、「中国製やマレーシア製のICの故障が多かった。日本製の半導体が壊れることはまず無かった」と言う。

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インドネシアで使った加藤さんの名刺。

その他に、現地ではオートバイの修理まで頼まれた。エンジニアはなんでもできるスーパーマンのように思われていたらしい。「知らないとか、できない、というのは技術者として恥ずかしい」という気持で、加藤さんは快く対応したと言う。インドネシアから帰国後は、アフガニスタンへの派遣の話があったが、加藤さんは、さすがに断った。「もちろん命が欲しかったからですよ」と笑って話す。

1980年代は海外勤務がたびたびあったので、その間はJA3GMの運用を一時的に中断せざるを得なかったが、それでも日本にいる間は、毎日のように電波を出して運用し、加藤さんのDXCCのスコアは順調に伸びていった。