「紀元2600年」

昭和15年(1940年)は、現在では忘れ去られているが「紀元(皇紀)2600年」の年として、国中が過去例のない大行事に大騒ぎした年であった。この年を記念してアジアで初の東京オリンピックと万国博覧会の開催が計画されたが、昭和12年に始まった「日中戦争」の影響を受けてそれぞれ早々と中止が決められた。

この2大イベントは日本が西欧諸国より660年古い歴史をもち、今や世界の一流国となった、ことを誇示するねらいの企画であった。オリンピックは参加国の募集も始まっていたが、鉄鋼などの資材不足も問題となり「オリンピック競技場を創るか駆逐艦を造るか」と議論になったという。また、開催された場合にはNHKが初めてテレビ放送を開始することになってもいた。

[行われた実験放送]

ちなみに、テレビ放送は世界的なテレビ技術の権威者であった高柳健次郎氏らのグループが、勤務していた浜松高工から大挙してNHKへと移籍して、準備を進めた。当時のその技術は世界的にも先端をいくものであった。東京オリンピックの中止が決定したのは昭和13年(1938年)7月であったが、高柳さんらはその後も実験を続けた。

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昭和8年、テレビ放送実験用送信機。左が高柳さん

実験は東京一円がエリアであり、放送番組を作っては週に1、2回の放送が行われた。現在、NHK放送博物館、高柳記念館、浜松科学館などには当時開発されて使われたテレビ放送送信機、テレビ受像機、また、中継車の写真・資料なども残されており、レベルの高さを知ることができる。テレビ放送の研究は太平洋戦争により中断され、さらに戦後はGHQがしばらくの間禁止した。

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昭和12年、完成した4台のテレビ中継車。高柳さんとともにNHKへ移る。

高柳さんらは日本ビクターに移り、映像機器の開発に取り組んだが、その成果は高画質カラーテレビ受像機、VHFビデオテープレコーダー、カラーカメラとなって実を結んでいる。一方の万博は入場券まで販売されたものの中止。そしてわが国で初めての万博が開催されたのは昭和45年(1970年)であり、30年も後であった。

2大イベントは中止になったが「紀元2600年」の記念行事として奈良県の橿原神宮、畝傍山東北陵の拡張整備、東京・代々木の天皇陵参拝道路の改良などが行われ、11月10日には東京・宮城前広場で「紀元2600年式典」が開催され、5万人が参加したといわれている。もはや「紀元」という年号は忘れ去られているが、菊池聖貢さんが生まれたのは、この年の10月19日であった。

[アマチュア無線禁止]

しかし、この年はアマチュア無線にとっては逆に悲惨な年であった。中国との戦争が拡大激烈になる一方で、米国との国交が怪しくなるにともない、海外との交信は国防上危険であり好ましくないとみられ始めた。このため、免許の更新が認められなくなり、ついに翌16年2月の免許が戦前最後の免許となった。

そして、16年(1941年)12月の対米英開戦にともない、アマチュア無線は禁止され、通信機は没収された。それから昭和27年(1952年)までの約10年間はわが国アマチュア無線の暗黒時代となった。ただし、軍部に協力することになる何人かのハムは更新が認められた。また、手違いなのかしばらくの間禁止の措置が取られなかったハムもいた。

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太平洋戦争開戦時、アマチュア無線局に出された「封印請書」

[自作カメラ、現像]

菊池さんが生まれたのは岩手県北福岡町(現在の二戸市)。青森県の三戸町と県境で接する町であった。菊池さんの幼年時代は太平洋戦争の時期に重なるが、のどかな農山村であり、食糧は「ひもじい思いをすることはなかったように思う」と思い出している。戦争末期には岩手県の盛岡、花巻、青森県の青森、八戸などに米軍機や艦船による爆撃があったが、二戸地域への影響はなかった。

昭和22年(1947年)地元の福岡小学校に入学。後にハムになった多くの仲間と同様に、子供のころから工作好きであった。鉄板を切ってコアを作り、絹巻き線を巻き、電磁石を作り、ベルを作り、またモーターも作り上げた。ラジオは鉱石ラジオからのスタートだった。「くもの巣コイル」の型は「ボール紙を切って作った」のも当時のラジオ少年と同じだった。5年生、6年生のころのことである。

このころの自作に「ピンホールカメラ」もある。「少年雑誌か科学雑誌に作り方が掲載されており、こんなもので写真が取れるのかと驚いて作った。フィルムに写して印画紙に焼いたのか、直接印画紙に画像を写したのか忘れたが、現像したことは覚えている。又木箱をつくり中に電球を入れ印画紙へ焼き付けする機械なども作っている。

[パチンコ台完成]

菊池少年は何にでも興味をもち挑戦した。しかも器用であった。戦争により壊滅してしまった産業経済が回復し始めた昭和20年(1945年)代の末、パチンコがブームになり、北福岡町もパチンコ屋が生まれた。菊池少年の友達の家もパチンコ屋を開店。菊池少年は入り浸った。といっても小学生でありパチンコをするわけではなかった。

しばらくパチンコ台を観察していた菊池少年はパチンコ台づくりに取り組む。木の板に釘を打ち、いくつかの穴を開け、木箱のパッケージとして使われていたテープ状の鋼板を周囲に配置した。玉を打ち出すバネを取り付けるとともに、穴に玉が入ると下部から自動的に玉が出るような仕掛けを作った。

穴から出る玉の数はそれぞれの穴によって異なるようにまで工夫した。「パチンコがしたくとも出来ない子供たち向けに一生懸命取り組んだ。当時のパチンコ台は簡単な仕組みであり、本物に近いものが完成した」らしい。出来上がった自作パチンコは近所の子供たちに大人気で、遊んでいたが「先生に見つかりしかられた」と言う。