[放送部・科学クラブ]

菊地少年はラジオについては「近くのラジオ屋さんに入り浸って、いろいろ教えてもらい、不要になった物をもらってきた」が、並4受信機の調整は店主より菊池少年の方がうまかったらしい。この時から「ごみのようなジャンク部品を工夫して利用する癖がついた」と言う。ただし、周辺にはハムはいなかった。このためアマチュア無線を知るのはもっと後になる。

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並4ラジオ受信機の回路の一例(アリア社)

福岡中学に入学した菊池少年は「放送部」と「科学部」に入部する。「当時入学したばかりのころは上級生が下級生をいじめる、といわれていた。今考えると先輩を先輩と思う気持ちを手荒な方法で教え込む事と理解出来るが、当時は怖かったため、部活はやめようと考えていた」と言う。ところが入学してすぐに上級生に呼ばれ授業時間中にもかかわらず「放送室へ来い」と言われる。

「やはりいじめられるのか」と恐る恐る放送室に行くと、そこには先生と3年生先輩が数名おり、強制的に放送部に入部させられてしまった。上級生は菊池少年の才能、ラジオ好きであることを知っており、入学してくるのを待っていたようだ。いずれにして、その後は「放送室がラジオやアンプの実験室になってしまった」と言う。

[録音機自作に挑戦]

入部した「放送部」の担当の先生は音楽と体育の先生であり、ラジオに詳しい理科の先生ではなかった。当然のことであるが、放送用アンプを組立てたり、放送システムのメンテナンスを手がけた。そこで知ったのがテープレコーダーであった。東通工(東京通信工業、現在のソニー)製のオープンリールタイプのものであった。

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菊地さんが入学した中学。1階右端が放送部の部室

「声も音も録音でき、再生されるのに驚いた。テープは樹脂ではなく紙に磁性粉を塗ったものだった」と言う。驚いたことに菊池少年はその録音機の自作に挑んだ。「自作にチャレンジしたがこれはさすがにうまくいかなかった。そのころは録音方法として直流バイアスと交流バイアスがありどちらも体験した」と言う。中学低学年の少年としては電子工学のレベルは異常に高かったといえる。

[短波を聞く]

同級生に一人だけラジオ少年がおり「お互いに競い合い、また教え合って0−V−1受信機や高周波1段増幅の1−V−1受信機を作った。短波による海外からの日本語放送があることを雑誌で知り、受信のためのコイルを作る。使えなくなった真空管のベースをボビン代りにし、エナメル線を巻いてコイルを作った。「試行錯誤しながら巻き数を決めて受信に成功した」という。

海外の日本語放送を受信したもののベリカード(受信証)を集めることもしなかったし、またJARLが制度として実施した[SWL(短波リスナー)ナンバー]の申請もしなかった。周辺に詳しい大人のいない地方の中学生にとって、そこまでやるだけの勇気はなかった。

[SWLナンバー]

JARL(日本アマチュア無線連盟)は戦後すぐに再建されたが、アマチュア無線の再開は容易に実現されそうもなかった。このため、再開促進を狙い全国に無線クラブ(ラジオクラブ)結成を勧めるとともに、SWL制度を設けた。短波受信に慣れてもらうとともに、受信レポートの作り方を知ってもらうことが目的であった。

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JARLが発行したSWLナンバー。JAφAA、阿部功さんが受け取ったもの。

雑誌「CQ ham radio」にこれらのSWLからの受信報告を掲載したこともあり、SWLメンバーは急増したが、同時にアンカバー通信も増え出した。JARLはアンカバーの自粛を促すとともに、SWL会員制度を設け、登録申請者にSWLナンバーを発行することになった。このため、戦後しばらくの間にハムになった多くが、このSWLナンバーの時代を体験している。

[アマ無線を聞く]

自作のプラグイン式0−V−1ラジオで短波を聞いていると、偶然に個人が何かしゃべっているのが聞こえた。「JA7デンマーク・フランスといっている。これは何だろう。デンマークにフランスはないし?・・・ヨーロッパの放送かと思った」と言う。そのうちに、しゃべっている相手の声も聞こえ出した。「何日間か受信しているうちに、これが雑誌に出ているアマチュア無線らしい」ことを知る。電波形式はAMの時代である。

後にわかったのはJA7DF(デンマーク・フランス)は、盛岡市の岩動隆一さんであった。「それ以後はおもしろいのでダイヤルを回してはアマチュア無線の会話を聞いていた。しかし、自分に出来るとは思ってもおらずただそれだけに終わっていた」と当時を語っている。また「そのころの雑誌、初歩のラジオと思うがワイアレスマイクの記事が載っており、それを見て発振器を作った」と言う。

当然のことながら菊池少年にはマイクロホンを買う小遣はない。「仕方なく、スピーカーを逆に使ってマイク代りにし、近所のラジオに電波を送り、混信を与え、届いた届いたと喜んでいた」ことを覚えている。昭和31年(1956年)中学の卒業が迫っており、就職のために慌ただしい日々を送っていたころであった。

[東北のハム]

戦前、東北は仙台市がハム王国であった。東北全体では41名のハムがおり、戦前に制定されていたエリア別では関東、関西に次いで3番目に多く、東海より多かった。その理由は八木・宇田アンテナの発明者グループである八木博士らが仙台の東北帝大に勤めており、その影響といわれている。八木博士自身はハムではなかったが、東北帝大は免許をもち短波やアンテナの研究を続けていた。

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八木・宇田アンテナを開発した八木さん

そのため、学生を中心に仙台市内で20名、宮城県下では23名のハムがいた。ちなみに岩手県は盛岡市の3名を含めて6名に過ぎなかった。ところが戦後になると盛岡市を含む岩手県のハムが急増し、宮城県と岩手県のハムの数はほぼ拮抗してしまう。戦後アマチュア無線は昭和27年(1952年)に再開される。菊池さんが初めてアマチュア無線を聞いた1年前であった。昭和29年時点で調べてみるとハムは宮城県34名、岩手県32名

となっている。