[戦時中もハムでありつづけた二人]

太平洋戦争を挟んで起きたこの変化は2つの理由で説明できそうだ。宮城県の戦前のハムには、関西から東北帝大に進学したハムが少なからずいた。大阪市生まれの八木博士を慕って進学したものと思われるが、戦前、戦中にほとんどが関西に帰っている。一方、盛岡市には戦時中も2人のハムがいた。開戦と同時に免許が取り上げられ、無線機も没収されたなかで、例外もあったことは先に触れたが、その代表的なハムが盛岡にいたのである。

その一人は、菊池さんが初めてアマチュア無線として受信した岩動(戦前J6DP)さんであり、もう一人は同じく盛岡市の中村與次郎(同J6EU)さんであった。岩動さんは昭和16年(1941年)2月に国の方針に基づき使用停止命令を受けている。一方、中村さんは昭和19年(1944年)1月4日に初めての免許を得ている。中村さんは戦後になって「岩動さんと2人にコールをくれ、送受信機の所有を認めてくれた」といっており、岩動さんの再免許も同じ年月日と思われる。ただし、岩動さんのコールサインはJ6ETに変わっている。

[国防無線隊への協力]

全国のハムはまだ免許が停止されていなかった開戦前に多くが「国防無線隊」などに所属し、情報伝達の一翼を担っていたが、岩動さんはその「盛岡隊」で活動を続けた。また、中村さんも送信機を製作し青森県弘前の師団指令部に貸与し、さらに国防無線隊の活動に協力したらしい。免許を停止しなかったというこの異例の措置は中央から「東北地方と常時連絡がとれるように」との要請があり、当時の仙台局が特別な計らいをしたものと言える。

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「愛国無線通信隊」の腕章を巻いた東京のハム

しかし、2人の免許期間はわずかであった。昭和19年7月10日には停止させられているが、実は両人ともに無線機をそのまま所有していたらしく、翌20年の終戦直前にも送受信を行い、米軍の艦砲射撃の状態を知らせたりしている。軍は見て見ぬ振りをしていたか、相次ぐ空襲を受けて混乱し誰も気にしなかったのか不明である。また、この2人が免許を許され続けていることは、東京のハム仲間も知るところとなり、戦時中に訪ねたハムもいた。要件は「国防無線隊の打ち合わせ」という大義名分だったという。

[戦後の活躍]

戦時中も免許をもち続けた中村さんは戦後JA7AYとなり、また、岩動さんはJA7DFとなったが、盛岡市を中心にハム志望の若者の面倒をみたらしい。そのため、戦後の早い時期に盛岡市の高校生や岩手大学生が免許を取得している。このような盛岡と仙台両市の環境の差が戦後の変化を生み出したと推測される。

ただし、盛岡市のこのような動きは菊池さんの住む北福岡町までは伝わってこなかった。両地区の約70kmは当時としてはやすやすと情報が伝達される距離ではなかった。また、そのころは「何としてもアマチュア無線をやろうとは思わなかったし、あの趣味は裕福な人がやるもの」と菊池さんはみていた。なお、岩動さん、中村さんの活躍は、すでに終わっている連載「東北のハム達。山之内さんとその歴史」に詳しい。

[民間ラジオ開局]

戦後、長い間、わが国のラジオ放送は大正14年(1925年)に始まったNHKのみの時代が続いた。このころ日本を統治していたGHQ(連合軍総司令部)は、広く、しかもスピーディに国民に情報を伝えることをねらい、民間放送局の設立を勧めた。この結果、昭和26年(1951年)に申請のあったラジオ局16局に免許が下った。

もっとも早く放送を開始したのは名古屋の中部日本放送であり、この年の9月1日であった。東北では仙台の仙台放送(ラジオ仙台、JOIR)が、翌27年5月1日に放送を開始している。その後、順次民放ラジオ局の開局が進み、2局以上のラジオが聞ける地域が増加する。複数ラジオ局が受信出来るようになると、0−V−1や1−V−1ラジオでは混信するようになる。そこで、ラジオ受信機は混信のないスーパーヘテロダイン方式へと変わりだした。

[ラジオ自作で多忙]

菊池さんもこの頃、隣人、友人を通じて依頼が多かったスーパーヘテロダインラジオ受信機自作に取組んだ。出来あがったラジオは“見てくれ”は悪く、電気メーカーの大量生産品と比べようもなかったが、とにかく安く作れた。菊池さんは「近くの入り浸りの電気店さんにも納品した。お蔭でラジオ受信機の知識はますます豊かになった」ことを思い出すと言う。

メーカーの生産には当時、物品税がかかり価格が高かった。このため、地域の電気店やラジオマニアの作るラジオが好評だった。後にハムになった多くはせっせとラジオ受信機を組み立て、生活の糧とした人もいた。菊池少年も「オーディオ機器の制作依頼も多く、何台組立てたか覚えていないほど作った」と言う。

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福岡中学放送部の仲間と。1番奥が菊池さん

このラジオマニアや電気店によるラジオ受信機の自作についてもう少し触れると、多くは何の“お咎め”を受けていないが、なかには税務署員の訪問を受けて、やむなく物品税を支払った人もいたし、学生と言うことで“大目”に見てもらったマニアもいた。また「使っている部品にはすでに物品税が含まれている。それを集めて作ったものにどうして物品税がかかるのか」と追い返した戦前のハムもいた。

[電気店に就職]

昭和31年(1956年)4月、菊池さんは八戸市の電気店に就職する。現在の高校進学率は98%に達しているが、菊池さんの卒業するこの年の進学率は全国が約50%、岩手県はそれに対して10ポイント低い約40%であった。北福岡町周辺ではさらに低く、菊池さんも「当時は中学を卒業して農業を継ぐとか就職するのは当然の時代だった」と言う。

「ラジオの自作ばかりに取組み、勉強をしなかった」という菊池さんであるが、その背景には「高校進学の必要がなく自分の好きなことをしたい」という気持ちがあったらしい。問題はラジオ少年であった菊池さんにふさわしい職場がないことであった。今でこそ東北地区にはエレクトロニクス機器メーカーが製造子会社や工場を進出させているが、戦後10年も経過していない当時は見つけることが難しかった。考えられることは家電商品を扱っている電気店であった。