[集団就職列車]

この当時、日本経済は戦後の疲弊から立ち直り、東京を中心とした関東地区の人手不足が深刻になりつつあった。このため中学卒業者は「金の卵」とたたえられ、地方から東京地域に大量の卒業生が就職した。昭和30年過ぎから約20年間、彼らは集団で列車に乗って東京に向ったが、その列車は「集団就職列車」と呼ばれるようになる。菊池さんの卒業のころであった。

この「集団就職列車」は、地元の職安の職員に見送られ、ノンストップで東京まで走ったという。到着した上野駅では現地の職安の職員に出迎えられ、就職先まで連れて行かれたらしい。今では考えられないがこのような時代は10年以上続いた。それよりほんのわずか前の菊池さんの卒業時にも多くの仲間が東京へと就職した。「それを考えると八戸市で住み込みは、いつでも家に帰れる距離でありつらくなかった」と、当時を思い出している。

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集団就職列車は前面に「団体」を掲示して走った(写真は「団体列車」を示したもの)

[評価される修理技術]

ラジオ受信機の自作を通じて地元の電気店とは親しかったが、従業員を採用するような店は少なく、菊池さんも「従業員の多い、大きな店に勤めたかった」と八戸市の店を選び、住み込みで働くことに決めた。このころ電気店は、電球、懐中電灯、電気アンカ、電気アイロン、電気コンロなどに加え、扇風機、洗濯機、冷蔵庫などの大型電化商品が裕福な家庭に売れ出していた。

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当時の電気アンカ(フリー百科辞典「ウィキペディア」より)

今でいうAV商品である無線電気製品では、ラジオから白黒テレビの普及がぼつぼつと始まり、大型のステレオも売れ始めた。現在小売業界を席巻しているスーパーストアや大型専門店が登場するのは昭和40年代半ばであり、菊池さんの就職する頃の小売業界はそれぞれ地域のちいさな店が、ちいさな商圏を相手に商いを続けていた。

その中で、他の小売店と比較して電気店は先端技術品を扱い、メーカーから支給される制服を着、手を汚すことのない職場の一つであった。しかも「次ぎから次ぎに生まれる新製品があり、電気店への就職はうらやましがられた」時代であった。菊池さんは朝早くから夜遅くまで働いたが「当時はそれが当然の時代であったし、仕事はつらくなかった」と振り返る。

[引き抜き]

その頃の電気店ではもっとも難しい修理技術がラジオ受信機、テレビ受像機であった。ラジオ技術に詳しかった菊池さんはすぐに白黒テレビの回路をマスターし、修理が出来るようになる。大量に家電製品が売れる時代ではなかった当時、修理技術者の存在は貴重であった。しかも、修理に出かけた家庭で技術力が信頼されて、他の製品の注文ももらえた。

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テレビ放送開始当時の白黒テレビ(シャープリ社史より)

このような菊池少年の働きは周辺の他の電気店からも注目されるようになる。菊池少年がもらってくる契約は、八戸市内の電気店ではトップクラスになっていた。修理技術力も信頼されたが人柄も多くの顧客に好かれた。当然、他の電気店から「うちに来て欲しい」と引き抜きがある。

実は菊池さん4店の店を移っている。「最後は東北でも名を知られた大きな店に勤めることになったが、店が変わってもお客の取り合いで揉めたことはあまりなかった」と言う。八戸地区でもカラーテレビがぼつぼつ売れ始め、自由に設置、修理できる菊池さんには次々と注文が入り、地域の家電販売界で知られる社員になっていった。

[ハムを知る]

ある電気店勤務の時代の話しである。その店の本店勤務になれたころ、三沢市にある支店勤務をいいつけられ、転勤することになった。そこの支店長が「アマチュア無線家を知っている。一度紹介しよう」と連れていってくれた。佐藤繁(JA7EW)さんであり、米軍三沢基地のPXで仕事をしている方であった。

三沢市の飛行場は戦前の旧軍の航空隊基地であったが、戦後は米軍が飛行基地として使用し、その後は自衛隊も共用するようになった。さらに、民間航空会社も使用が許され、現在では日米両軍、民間航空の3者が使っている飛行場としては日本唯一のところと言われている。民間機の発着は少ないが、青森空港が青森県の中央よりやや西にあることを考えると、三沢空港は東部の太平洋側の人たちにとってはありがたい存在といえる。

PX(ポスト・エックスチェンジ)は売店ともいうものであり、米軍は世界にある全基地に開いており、それぞれの国の製品には物品税がかからないため、基地内の米軍関係者には便利なものである。また、これらのPXを通して販売できるルートを持つと、全世界では莫大の売上げとなった。事実、PXの売上げによって、中堅企業にまで育った音響メーカーもあった。

[資格に挑戦]

菊池さんが佐藤さんの自作の無線機を見ながら感じたことは「案外簡単な送信機だな。簡単に作れる」と思ったことである。と同時に「やがてはハムになり、アマチュア無線をやろう」と決意した。しかし、現実にはまず当面の人生設計が必要であった。しばらくすると、菊池さんは家の都合で北福岡の家に戻らなくてはならなくなる。「この機会に仕事に必要な資格を取ろう」と決意し実行する。

近くの電気店の仕事を手伝う一方で、まず「テレビ修理技術士」の資格を得て、さらに「第2級アマチュア無線技士」に挑戦する。家電製品の技術習得については電気店の社員であれば、電機メーカーやその卸し会社である販売会社のサービス部門がバックアップしてくれていた。しかし、このころの菊池さんはアルバイトとして電気店を手伝っていたに過ぎなかった。

一方、アマチュア無線では周辺に先輩ハムはいない。過去の試験でどんな問題が出されたか、試験の雰囲気はどんなものか、知りたいことは多かったが聞く相手がいなかった。このため「両方の試験ともに自分でテキストを買ってきて勉強しなければならなかった」らしい。