[JA10]

その頃のことである。5球スーパーの受信機で交信を聞いていると「JA10・・・」のコールサインが聞こえてくる。「最初のうちはJA10というプリフィックスもあると思っていた。ところが良く聞いていると名前を言わない。住所を聞かれると“.×○地方です”とのみ答えている。菊地少年は「JA10を使えば免許が無くても無線が出来るようだ」と思い込む。

とりあえず送信管に6ZP1を使ったシングル送信機を自作し、アンテナは家の中の鴨居(かもい)に張り巡らして「夜な夜なJA10のコールで楽しんでいたが、近所のラジオに声が入ることを知り、3カ月程度で慌ててやめた」ことがあった。もっとも「その時に交信が出来たかどうかの記憶はない」と菊池さんは言う。

[2アマ合格]

テレビ修理技術士試験は一度で受かったものの、2アマの試験は3回目の挑戦で合格する。

「その頃の試験は記述式であり、しかも計算式を示して求めよ、というものであった。問題には専門用語がやたらに書かれており、1回目は手におえなかった。それでも勉強の成果が現われ、3回目には自信をもって取り組めた」らしい。

試験は仙台市の電波工業高校で行われるため、夜行列車で6時間かけて受けに行った。現在は3アマ、4アマは、地元で行われる養成課程講習会を受けて免許がもらえる。菊池さんは今でも若いハムに「当時の受験の大変さを話したくなってしまう」という。結局、従事者試験に合格し、免許証が発給されたのは昭和33年(1958年)3月31日であった。

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旧2級の免許証

[落成検査]

4月11日、菊池さんは「無線局免許申請書」を東北電波監理局長宛に提出。「放送局の開局申請並の配線図やデータを付け、しかも4部が必要なため、カーボン紙で複写しながら作成した」と苦労を語る。当時は複写機などはなかったのである。申請に対して監理局からは4月23日付けで予備免許が与えられた。コールサインJA7NL。3.5MHz、7MHz、A3、10W出力の申請であった。

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最初の「無線局免許申請書」

その後は無線局の落成(完成)届けを出して検査を受けることになる。かつてはこれほど複雑な行程を経て、初めて電波を発射できた。問題は検査である。仙台の管理局から係官が検査用の測定器を携えて来ることになっているが、あまりにも遠方であり「近くの漁業基地の船舶無線検査のついでに寄るため、1年近く待たされた」と言う。この結果、落成検査は翌34年5月7日になってしまった。

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最初のQSLカードは印刷代がなく手書きであった

[初交信]

「検査官は、重い測定器を担いできて、指示事項通りのチェックの後、離れた何ヵ所かの場所で周波数測定。別段問題なく合格した」という。試験電波は「確かJA7NDの相馬与勝さんとだった」と記憶を辿ってくれた。初交信は多くの場合、事前に周波数、時間を示し合わせておくが、菊池さんは「電波を出して偶然につながっての交信だった」という。

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免許取得後に自作して使用した無線機

自作の最初のころの設備は貧しいものであった。「マイクロホンが買えないので、クリスタルイヤホンをマイク代りとした」らしい。菊池さんはしばらくの間は時間があれば無線機の前に座りんだが、交信の記録づくりとか、QSLカード集めには関心がなく、無線機の改造に熱中した。

[電信級、電話級の誕生]

再びアマチュア無線に話題を移す。昭和33年(1958年)3月、ようやく従事者免許を取得した菊池さんであったが、すでにこのころから電波法の改正の動きが出ていた。菊池さんはそのようなことは知るよしもなかった。改正の要点は新たに1級、2級、電信級、電話級の4ランクを設けるもので、より容易にハムになれる電信と電話のやさしいクラスがうまれた。

この電波法改正が公布されたのはこの年の5月6日。菊池さんが免許を取得して2カ月も経っていなかった。改正電波法では従来の2級は電話級にさせられた。電信がともに試験課目にない点で共通しており、一応合理性はあった。しかし「旧2級」と「新2級」が生まれたのも事実であり、JARLは「旧2級を新2級に無条件で移行させて欲しい」と郵政省に申し入れたが、受け入れられるものでなかった。

ただし、旧2級のハムが5年以内に電信の試験に合格すれば新2級になる道が開かれた。ちなみにこの時の改正により、従事者免許が終身免許になり、また、免許手続きや検査が簡易化されるなど、ハムへの道が広くなった。菊池さんは電信を受験して「新2級」に挑戦することになる。

[電信の発信機が故障]

昭和35年(1970年)菊地さんは電信を受験。「この時は電信だけの試験のため、勉強も集中して出来た」と言う。試験は仙台から試験官が出張してきて盛岡で行われた。ヒアリングの試験となった時、試験官が持参してきた発信器が故障してしまった。「誰か発信機を持っていませんか」との問いに、菊池さんは「私の発信器は終わり頃になるとトーンが変わってしまいますが、それでもかまわなければ」と提供した。

泊りがけで受験に来ていた菊池さんは宿で練習しようと発信器を持参していた。キーが打たれたが、菊池さんが話したとおり、途中でトーンが変わってしまう癖が出てしまった。試験官はそれを気にして「皆さんどうしますか、もう一度同じ電文を打ちましょうか」ともう一度打ってくれた。「そのお蔭かどうか全員が合格してしまった」と菊池さんは思い出して笑う。