[地域クラブ立ち上げ]

新2級となった菊池さんは昭和35年6月「無線局指定事項及び無線設備変更申請書」を提出、それに基づき同時に「無線局落成届」を出す。変更は9月19日に許可され、2日後に「10月18日から20日までの間に検査します」と連絡を受けている。このころ、八戸に転居することになり、落成検査は八戸で受けて開局している。

開局した菊池さんは、夢中になってキ−を叩く。しかし「英文が苦手なため海外DXはしなかった」と言う。その代わり、JARLの活動には早くからかかわりあった。八戸に移って開局するとすぐに青森県南部、三戸、八戸、地方のハムが集まり「南部アマチュア無線クラブ」を立ち上げる。青森県のいわゆる[三・八地区]をカバーしたクラブであり「発足の時期についてざっと調べたが記憶が定かではない」と菊池さんは言う。

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菊池さんが参加したNHKのテレビ修理キャンペーンカー

同クラブは対象地域が広かったこともあり「会員はSWLも含めすぐに5、60名になっていった」と言う。他のクラブと同様に技術勉強会を行ったり、受験のための勉強会を積極的に行なった。「ここで勉強した少年達がハムになって正式会員になるため、会員は瞬く間に100名を突破」したらしい。このため、順次、十和田、三沢、八戸と分離独立、南部を合わせて4つのクラブとなった。

[SSBに挑戦]

ちょうどこのころは新しい電波形式であるSSBが普及し始めたころである。菊池さんは関東の局がSSBで交信しているのを知るとともに、アマチュア無線雑誌でその理論や回路の仕組みを知り、挑戦する。「最初はアメジャン(米軍のジャンク品)のクリスタルを組み合わせフィルターを自作して挑戦し、とりあえず送信受信に使える状態にまで出来た」という。

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寄せられたテレビ受像機を修理する菊池さんら

しかし、明瞭な音声を再現するまでは出来ず、JARLが斡旋してくれた国際電気のメカニカルフィルターを使ったりした。その後SSBの普及が早くHF用無線機はこれを契機にメーカー製の市販品を買い求めるようになった。「あこがれの機械を手に入れしばらくはこれを愛用することになった」ものの、その結果「小遣がなくなりその後しばらくは節約の生活を続けることになった」と言う。

[NHK勤務]

菊池さんは再び八戸市に行き電気店勤務を続けるが、NHKの嘱託職員募集に応じて、NHK八戸局営業技術課に所属する。このころNHKはテレビ受像機の普及に全力をあげており、建物や山などが障害となっている地域に対しての救済やテレビ受像機の故障修理に力を入れていた。このため、テレビ受像機の技術に詳しい人間を嘱託として採用したのである。

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南部アマチュア無線クラブの新年ミーティング(昭和36年)

NHK勤務は3年間。菊池さんの技術力は高く評価され、しかも受像機だけではなく受信アンテナの理論でも同僚をはるかに上回っていた。遠方の送信局を受信する場合、不足の電界強度をアンテナをスタックにして補った。「アマチュア無線で学んだ知識だった」という。正職員にならないか、との誘いもあったが、菊池さんは再び電気店勤務に戻る。

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八戸で初めて印刷したQSLカードを使用した。しかし、文字だけの2色刷りだった

[カラーテレビ調整のベテラン]

菊池さんが何度か“引き抜き”にあったことは先に触れたが、実は最終的に4店移っている。「最後は東北でも名を知られた大きな店に勤めることになったが、店が変わってもお客の取り合いで揉めたことはあまりなかった」と言う。八戸地区でもカラーテレビがぼつぼつ売れ始め、自由に設置、修理できる菊池さんには次々と相談と注文が入り、地域の家電販売界で知られる社員になっていった。

今でこそカラーテレビは電源とアンテナを接続するだけで簡単に受信出来るようになるが、当時の据え付けは大変な作業であった。地磁気の影響をなくすための「磁気抜き」偏向コイルの位置調整、コンバージェンス補正など「全部で12カ所を調整する必要があり、しかもそれぞれが相互作用するため、経験が必要であった」と菊池さんは言う。

[販売会社社員]

菊池さんが最後に引き抜かれたのは通常考えられない異常なものであった。大手電気メーカー卸し業務を行う八戸地区の販売会社が声をかけたのである。トップクラスには大卒がおり、高卒が中心の販売会社である。菊地さんは「私は中卒ですから」と辞退したが、その販売会社のトップは「学力などは関係ない」とありがたい言葉をかけてくれた]と言う。

しかし、当然なことながら勤めていた電気店とは揉めた。「話しがあってから実際に移るまで1年程度かかってしまった」ことからもわかる。家電流通業界の歴史の中で、販売会社に勤めていた従業員が独立して電気店を開くことはあった。しかし、家電店の従業員が販売会社に引き抜かれるケースは全国でもほとんどない。それほど、菊地さんの能力は評価されていたといえる。

[養成課程講習会]

一方、アマチュア無線活動では「南部アマチュア無線クラブ」への加入を契機に菊池さんはJARL活動を積極的に進める。全国的にハムの数が増加し、無線機を販売するメーカーが増加し「自作から市販品購入」の変化が始まるころであった。サーフィックス2文字のハムとして、後輩の面倒をみる必要に目覚めたのかも知れない。昭和39年(1964年)菊池さんは結婚し、八戸市の市営住宅に入居する。

昭和40年(1965年)2月、郵政省は[養成課程講習会]制度を発足させる。急増するアマ無線受験者の数に音を上げたことが大きな理由であった。電話級の受験者、電信級への移行希望者は一定時間の講習を受け、その後の簡単な試験での合格者に免許が与えられるという制度であった。翌年、3月の同じ日に東京で初の電信級講習会、群馬で電話級の講習会が行われた。