[養成課程講習会講師]

菊池さんは「南部アマチュア無線クラブ」を対象とした養成課程講習会には第1回から講師として活動している。講師は2アマ以上であることが条件であり、菊池さん以外にも先輩の適任者はいたはずであるが、若い菊池さんが選ばれたのは「多分、私が販売会社の社員として、販売店を集めての技術講習会を何度も経験、その実績が認められたためと思う」と言う。

その「養成課程講習会」がいつごろ始まったのかはっきりしていない。先に触れた通り、東京など一部地域では、昭和41年に始められている。南部地区ではそれほど遠くない時期に始められたと推定されるが、菊池さんが販売会社の社員になってからだとすると、昭和43年(1968年)以降となる。いずれにしても第1回から今日まで講師を続けているハムは全国でもほとんどおらず、菊池さんは貴重な存在である。

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菊池さんが自作した無線機の一つ

[十勝沖地震]

昭和43年(1968年)4月、松下電器の販売会社・八戸ナショナル家電販売に移った菊池さんは1カ月半後の5月16日に十勝沖地震(1968年十勝沖地震)に遭遇する。9時48分に勃発した地震の震源地は三陸沖、後にM7.9と発表された大地震であった。被害は死者49名、不明3名、負傷330名。八戸では238cmの津波が発生するなど、建物全壊673棟、半壊3004棟のほか、全焼、半焼26棟にのぼった。

このほか、床上浸水、床下浸水、一部破損家屋は15697戸と記録されている。もちろん、田畑の水没、漁船の流出など大災害となった。気象庁の報告では被災者の概数は22000人以上に達したという。震度は八戸、青森などが5であった。

菊池さんはこの時、初めての非常通信を体験し、後に非常通信協議会の折に活躍が評価され表彰を受けている。その模様は後に「東北地方非常無線通信協議会」の機関誌に記録されているが、ここではその概略を紹介しておく。

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八戸ナショナルの社員リクレーション

[心配せずに行ってこい]

この日、社員が集っての朝会が終わり事務所に戻った時、地震が発生。建物の床、壁に亀裂が走り、菊池さんは建物の外に出て、落下物がないか頭上を確認。揺れがおさまった後に連絡を取るために事務所に戻り、電話の受話器を取り上げたが何の音もない状態だった。傘下の販売店支援のため全員出動の指示が出るが、菊池さんは「アマチュア無線局の役割として非常通信をする必要があるかもしれません。場合によっては帰れません」と上司に報告。

「心配せずに行って来い」との上司の許可を得て、車の中の50MHz機で市内の局を呼び出し、連絡のとりやすいNHK八戸局に集合した。NHKで始めて通信途絶を知り、非常通信のネットを構築して欲しいと依頼され、発電機を借りる。車のフロントに「非常無線」と書いた紙を張り、渋滞で交通規制の中を自宅に帰る。散乱状態の家では無線機前の座るスペースだけをつくり、非常通信の電波を出す。「依頼されて30分後だった」という。

[非常通信]

「非常、非常、非常、こちらはJA7NL、青森県八戸市より、仙台、東京、盛岡、青森、各局応答されたし」と7MHz、10Wで発信。市内は50MHzで月館弘勝(JA7BIJ)さんと結び、各地区との連絡網を確保。NHK、民間放送局、新聞社、日赤、法務省、企業の電文を2日間に渡って取扱う。「電文の第1号は小学校校庭にできた地割れにはまって亡くなった児童の氏名の送信であり、涙ぐみながらマイクを握った」ことが思い出されるという。

依頼された電文量が多く、菊池さん一人では手におえず「NHK仙台局からヘリコプターで応援者が駆けつけ、さらに関係者から炊き出しやおにぎり、ガソリンが届けられた。夜になると八戸市内の小西芳明(JA7CII)さんも電波が出せるようになり、お互いに協力しあって進めた」と言う。翌日16時に非常通信解除まで「長い長い2日間だった」と振り返る。

この非常通信の電波について菊池さんは「非常、非常、非常と呼びかけて電波を出す時、やって良いのか、間違っていないか、電波法違反で叱られるのではないか、と恐れながらスイッチを入れた」と言う。「体は震え、手に持ったマイクロホンは汗でびっしょリと濡れてしまった」とその当時を語る。

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八戸、十和田、三沢、三戸のクラブ合同ミーティング(昭和37年)

「非常通信は個人としてやらなければならないが、その判断が難しい。しかも、自分の所の被害状況や職場の理解などもからんでくる、などさまざまな問題がある」と報告に記している。菊池さんの活躍はテレビ放送で報道された。大阪に出張中の販売会社トップは画面で菊池さんの活動を知った。「入社したばかりの社員が重要な仕事を放り出したこともそれで許されたと思う」と振り返っている。