[50MHz機]

十勝沖地震では50MHz無線機が活躍したが、菊池さんはHF機を市販品に変えたものの、VHF機では自作を続けていた。VHF機の市販が始まったのは昭和30年代の後半であり、菊池さんも50MHz機を自作からキット制作、そして市販品の購入へと移行させていく。オートバイの免許を取り、250ccのオートバイに無線機を取り付け、さらに、四輪自動車に載せて、モービル無線を始めている。

50MHz帯は、戦後アマチュア無線の免許が再開された後もしばらくは利用者が少なかったが、それでも昭和30年前後には新しい動きが始まった。スポラデックE層の影響を受けて、交信距離が徐々に伸び、やがては海外との交信が成功していく。また、E層によらないGW(地上波)での交信も広がっていった。

[JMHC]

昭和30年代半ばになるとモービルハムが登場する。当時ステータスの代表であった車に無線機を載せることは若者の夢であり、瞬く間にモービルハムが増えていく。自動車電話も携帯電話もない時代である。車に無線機を取り付けたいためにアマチュア無線の免許をとる若者も少なくなかった。モービルハムは東京と大阪で生まれ、東京ではJMHC(日本モービルハムクラブ)が生まれ、全国に組織を拡大しようとの活動が始められた。

この結果、昭和30年代から40年代にかけて「JMHC**」のクラブが各地に生まれ、一時は「第2JARL」が出来るのではないか、とさえいわれたが、昭和50年代になると自然消滅状態となり、現在は細々と続いている。車の普及が進み、ステータスでもなくなり、ポケットベル、自動車電話、そして携帯電話へと発展する移動通信・電話が普及し始めたからである。

[青森のJMHC]

全国のJMHC組織は「西高東低」であった。九州、中国、東海地区の組織はしっかりしており、会員数も多かった。それに引き換え東北、北海道の組織は弱かった。理由としては組織化を進めたハムの方が西日本に出かけて勧誘したが、東の方には手が回らなかったことがあげられる。ちなみに、関西は最初からこの組織には加わらなかった。

そのようななかで、東北では青森にJMHC青森、十和田、七戸、五戸の4組織があった。もっとも他の東北地区にも組織がなかったわけではないが、青森の突出振りが目立った。その理由は分らないが、菊池さんらのVHFへの挑戦グループがその基盤をつくった。「われわれの仲間のなかからJMHCの組織が生まれた」と菊池さんは言う。ただし、菊池さんらのグループはそれに加わらず「八戸モービルクラブ」として残った。

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和倉温泉で開かれた第4回JMHC全国大会

[144MHz/430MHz]

昭和40年代の半ばになると144MHzや430MHzでの交信記録が続々と出始める。GWで144MHzでは1000km、430MHzでは400kmの記録が生まれている。これらのV、Uの無線機は当初は自作しかなかったが、430MHzではやがてタクシー無線の放出品が出始めた。

タクシー無線は60MHzが利用されていたが、昭和39年(1964年)に400MHzへの移行が決定し、昭和46年(1971年)までに切りかえることが義務付けられた。このため、このタクシー用の無線機が出回り出したのである。菊池さんは「車に取り付けるアンテナが最適な長さであり、急速に放出機が使われた」と言う。

その後、徐々に144MHz、430MHzでも市販品が登場するようになり、新しい周波数帯に挑戦するハムが増え始めた。菊池さんは「次々に高い周波数の無線機づくりに挑戦することがおもしろかった」と、これらのVU機の自作を続けた。菊池さんにとって未知な分野でもあり、菊池さんら「八戸モービルクラブ」はそれに挑戦した。

[苦肉の発想]

菊地さんは各地で行われるJARL総会やハムフェアで、VUの自作機を見る機会があった。「東京など中央では素晴らしい部品を使った無線機が多く、地方から見るとうらやましかった」と言う。このため、コンバーターは高い周波数になればなるほど「キャビティや共振棒などは私どものような地方では無理」と考え込んでしまったらしい。

それでもいろいろ考えた菊地さんらは挑戦を始める。共振棒は暖房の石油配管用銅パイプを利用。最適な長さなど分らない。そこで、共振棒もキャビティ内部の長さも変えられるようにした。「キャビティといっても真鍮板を使った非常に雑なもの。そのキャビティにパイプを通す穴を開け、パイプの中にビスを通して長さ調整が出来るようにした」と言う。

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菊池さんらが自作した1200MHzコンバーター

[八戸方式]

ビスで調整出来るようにしたことで「かなり広い周波数をカバーすることが可能となり、

さらにプリント基板を箱型にハンダ付けして使ったことから使い勝手が良く、丈夫なキャビティができあがった。この回路機構はアマチュア無線雑誌などに掲載されると「安価な回路」と評判となり、いつのまにか「八戸方式」と呼ばれるようになる。後に、この回路による無線機が活躍し、さらに話題を集めるようになる。

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1200MHzコンバーターの「八戸方式」回路部

その後、菊地さんの生まれ故郷の岩手県・福岡時代の後輩である十文字正憲(JA7RKB)さんが八戸工業大学の助教授として赴任。菊池さんらと一緒になって活動することになり、菊池さんらの制作した機器をまとめ「1200MHzハンドブック」として2巻を発刊している。ちなみに、十文字さんはアンテナや太陽電池についての提案もしており、博識なハムとしても知られている。

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電波実験社刊[1200MHzハンドブック]