[ATV免許取得]

「八戸モービルクラブ」がテレビ送信に取り組み始めたのは昭和45年(1970年)ころからである。「VU波で音声だけの交信ではおもしろくない」との話しから「どうせやるなら最終的には動画の双方向2ウェイに挑もう」ということになった。テレビの受信技術に詳しい菊池さんにふさわしいテーマであり、菊池さんが中心となっての挑戦が始まる。

わが国でSSTV(スロースキャンTV)の送受信が許可されるのは昭和48年4月。この時にはすでに申請していた24名のハムに免許がおり、それぞれが取り組んだ記録がある。菊池さんの実験はそれよりも1年早かった。しかも動画を送るATV(アマチュアTV)局であり「白黒から始めてカラー電送に挑もう」と仲間と夢を語り合った。

[全国でも実験相次ぐ]

ハムによるATVへの取組みは意外に早く、昭和30年代の末には実験が始められている。記録的にはっきりしているのは昭和40年(1765年)11月の東京ビデオクラブ(JA1YNZ)と新宿の山口意颯男(JA1DI)さん間との電送が第一号といわれている。金沢では円間毅一(JA9AA)さんが5年がかりの実験の結果、昭和43年(1968年)7月に電送に成功している。

この間、全国でも実験を手がけたハムは少なからずいたはずであるが、詳しい記録はない。これら実験の多くは白黒であった。菊池さんらは白黒からスタートしたが目的はカラー画像の電送であった。「受信技術は分っていても送信技術は手探りで進めなければならなかった」菊池さんは「受信プロセスと逆のことをやれば良い」と取り組む。カメラなどの入手は難しく、カラーバーゼネレーターを使うことで我慢することになった。

[白黒テレビ送信に成功]

菊池さんがATV送受信の資格を取得したのは昭和45年(1969年)11月20日。菊池さんは早速取組みを始める。「何とか白黒で年内に開局、送信したい」と、送信機を作り、テレビカメラ、テレビ受像機の改良に取り組み、12月27日に白黒テレビの送信に成功。出力は10ミリWで。7km離れた仲間が受信してくれた。この模様は地元の日刊紙に大きく取り上げられた。

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最初のATV成功の新聞記事

46年(1971年)夏「八戸モービルクラブ」のメンバーは車3台を連ねて札幌へと向った。札幌では八戸市から大学に進学していた仲間に会い、地元のKHC(キング・オブ・ホビー)メンバーを紹介された。双方ともに高い周波数に取り組んでいることが分り「430MHzのATVに挑戦しよう」と話が決まった。

昭和47年(1972年)9月3日、北海道・札幌のオロフレ峠に移動していたKHCクラブに向けて430MHzでの白黒画像を送信。八戸側は八戸階上岳に移動しての試みであり、同時に実施した144MHzの音声通信ともども成功した。距離は240kmであった。

[カラーテレビ送信]

昭和47年(1972年)9月。KHCグループに白黒画像を送ってから約20日が経過した24日、今度はカラー画像の伝送に成功した。双方の場所も、430MHzの周波数も同じであり、この時は時間を区切っての交互送信が行われた。八戸の出力は10W、オロフレは50W。ただし、天候は悪く双方ともに霧の中の交信となった。

八戸からの画像は北海道側でメリット2-3で受信された。北海道側はカラーVTRを設置しており、受信した映像や設営の状況を折り返し送ってくれたが、八戸側のカラーはS/Nが悪く色が着かなかった。霧は晴れることなくさらに悪天候となったため約4時間半で中止しなければならなくなった。この時の画像は、先に触れているように「カラーテレビ調整用のカラーパターンゼネレーターを使い、パターンのみを送信した」と言う。

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霧の中での430MHz ATV電送

この時「実は1200MHzでテレビ音声を送る実験も行ったが、天候の影響を受けて相手の信号を感じるものの話しの内容がつかめず失敗した」と菊池さんは報告している。さらに、144MHz、F3を関東に向けて送ったが「応答はなかった」と言う。ちなみに、八戸のグループはこの実験を機会にして「八戸UHFグループ」に名称を変えている。

[1200MHzに挑む]

翌年、昭和48年(1973年)9月9日、八戸UHFグループはKHCグループとの間で1200MHz、293kmの音声交信記録をつくる。この時の最初のスケジュールは岩手県久慈市の近くにある袖山(そでやま)でやることになっていた。地理に詳しくない菊池さんのグループを久慈市アマチュア無線クラブの仲間が案内してくれたが、山頂からの電波の伝播状況は悪かった。

「430MHzではメリット5ながらSが弱くて心配だった。1200MHzに移ると信号は確認できても内容がほとんど分らなかった」と言う。菊池さんらが周囲を見渡すと少し前方に袖山よりわずかに高い山がある。安家森(あっかもり)という名の山で標高は1239m。そこに移動することになった。

[日本記録]

そこに移動することになった菊池さんは、発電機を背負いメンバーに機材をもってもらい「道のない斜面を切り開きながらやっとの思いで山頂に辿り着いた」と当時の苦労を思い出しながら語ってくれる。すでに予定していた時間よりも2時間も過ぎていた。急いで機材をセットして北海道を呼ぶ。驚いたことにお互いが59でコンタクトできた。記録を確認のために2時間後にもう一度コンタクト。「次ぎも59のリポートを交換でき、無事終了した」と喜ぶを語る。

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1200MHz 293km交信成功の青森側

これは当時の日本記録である。KHCグループは北海道の1050m高の樽前山に展開しての交信であり、ともに出力は1W。アンテナは10ターンのヘリカルアンテナであった。この時に使ったのは、すでに触れている「八戸方式」と呼ばれた自作コンバーターであり、その話題はさらに広がった。

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1200MHz交信に挑戦する菊池さん