[双方向伝送]

菊池さんは「TV通信の最終の形を見極めるためにも1200MHzでのカラーテレビ双方向伝送を成功させたい」とさらに挑戦を続ける。「最終の形」というのは「同じバンド内で画像の双方向伝送をカラーカメラを使い完璧な形で成功させ、画像伝送実験を止めたい」と考えていたからである。とりあえず近場での実験に取り組み成功する。昭和49年(1974年)9月16日である。この時のために「機材7台を作ったり壊したりして準備」したと、その周到ぶりを語る。

交信は菊池さんと八戸市内の大南公一(JA7BSI)さんとの間で行われた。1200MHzという周波数を考え、お互いが条件の良いハム仲間の家に移動する。菊池さんは熊谷博(JA7UAO)さん宅、大南さんは阿部修一(JA7BIV)さん宅であり、ともに八戸市内で距離は約4km。それぞれの移動先にはハム仲間が集り、こまごまとした準備を手伝った。

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1200MHz同時通信。菊池さん側のスタッフ。手を上げているのが菊地さん

[出来た!出来た!]

夕方の7時から始められた準備は各機器のチェック、アンテナ取り付けなどを行い8時には完了。8時15分、菊池さんから送信「メリット5」で良く見えると連絡があり、同20分には同時に送信開始。双方のテレビ画面に、それぞれ相手局に集っている仲間の顔が映り、ともに「出来た出来た」とひと時は興奮状態となった。

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1200MHz同時通信。大南さん側のスタッフ

11時まで、双方が使用している機器などをカメラを通して紹介「JARLの規程により2時間以上の交信が必要なために2時間30分の送受信を行った。出力は1Wでアンテナにはコーナー・リフレクターと10ターンのヘリカルアンテナが使用された。しかし、現在は「熊谷さん、阿部さんともに亡くなられており、寂しい限り」と菊池さんは振り返る。

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同周波数、同時通信 1200MHzで菊池さんが送ったテロップ

[機上からの画像伝送]

次ぎに取り組んだのが高度2000mの空からの交信であった。菊池さんは十和田アマチュア無線クラブの田沢與志隆(JA7CKN)さんから紹介されて米軍三沢基地勤務の米人ハムであるワーカーさんと親しくなった。ワーカーさんは軍医で、小型飛行機であるセスナを所有し、東北、北海道の空の散歩を楽しんでいた。菊池さんも時には同乗して空から地元を眺めたりした。

そのワーカーさんと飛行機からの機上通信の計画が持ち上がり、430MHzのテレビ送信と1200MHzの音声通信に挑戦したことがある。飛行ルートは三沢基地から東京の厚木の米軍基地まで。菊池さんの地元のハム仲間には計画を話して受信を依頼していたが、厚木までのルート下のハムには一切連絡せずの実験であった。テレビ画像送信は地元と厚木上空で実施、地元では受信に成功したが、厚木での受信画像は不鮮明だったらしい。一方、1200MHzのFMでは「約30局と交信出来た」と言う。

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セスナ機を前のワーカーさん(右)と菊地さん(右から2人目)

[富士山にギブアップ]

菊池さんらの430MHz、1200MHzでの挑戦は当時の記録をいくつかつくった。しかし、その後は次第に熱が冷めていく。原因はJA1方面のアクティブなハムによる富士山山頂での交信が始まったことによる。「富士山山頂からなら簡単に記録を伸ばすことが出来、われわれは遠くてその富士山を利用することが出来ない。もう手が出ない」と菊池さんらは悔しがった。

そこで、ある時、JA1の仲間が富士山頂でDXにチャレンジするとの計画を知り、菊池さんらも岩手県二戸市の折爪岳に泊りがけで出かけ、交信を試みたことがある。山頂に登り必死で挑戦したが「信号さえ届かなかった」と言う。ただし、その中間地点の八溝山山頂に移動していた現地のハム仲間とは「弱いながらもコンタクトできた記憶がある」と言う。八溝山は茨木、福島、栃木の県境にある標高1022mの山である。

[スペシャライズド・コミュニケーション]

アマチュア無線がHFからVHFそしてUHFと周波数による開拓が一段落するころ、新しい電波方式による試みが誕生した。菊池さんらが挑戦したATVやFAX送信のほかにSSTV、RTTY(ラジオ・テレタイプ)、フォーンパッチなどである。要はモールス信号や音声以外の電送が総称してこのように呼ばれている。

VUの交信は日本のハムが世界的にも多くの記録をつくったが、これらのスペシャライズド・コミュニケーションは欧米に遅れを取った。いずれも行政による許可が必要であり日本での許可が、10年も20年も遅れたからである。とくに公衆電話回線との接続が可能なフォーンパッチが認可されたのは1998年。太平洋戦争後に日本に駐留した米人ハムはすでに米国内の家族との会話に利用していたのにである。

好奇心の強い菊池さんも当然のことながらこのなかのいくつかに挑戦している。SSTVは静止画の電送であり、カメラとスロースキャンコンバーターを使っての交信となる。菊池さんらは「SSTVが許可になった当時は緑色のブラウン管を使っており、鮮明な画像に慣れた私たちにはあまりおもしろさが感じられなかった」と、手がけることはなかった。

[楽だったFAXの入手]

FAX交信も一時はハム仲間のブームとなった。電話線を経由したFAXがまだ、特殊用途や一部の大企業にしか使われていなかった時代である。それだけにほとんどのハムはFAXの入手に苦労し、企業が使い古したFAXを格安で手に入れたりした。その点、菊池さんは親会社のグループ会社にFAXのトップ企業があり「リース放出品など比較的安価に手に入れやすかった」と言う。

現在、これらのスペシャライズド・コミュニケーションはパソコンの登場と、無線通信のデジタル化により、いとも簡単に実現されてしまう。かつてアナログにより必至にデータ伝送に挑戦したハムにとっては、物足りない面と同時に「また、新しい挑戦材料」ができたことになるといえそうだ。