[10GHzテレビ伝送]

1200MHzのカラーテレビ双方向伝送に成功した菊地さんは、ATVへの挑戦は止めにするつもりであった。ところが「どうしてもさらに高い周波数で実験したくなった」ため、10GHzの伝送を試みた。「当時手に入るものといえばガンダイオード位しかなく、これらを使ってコンバーター、送信機は自作した。アンテナもこれを取り付けるマウントも、ハサミで真鍮板を切りプリント基板を使って作るなど、なんでもやってみた」と言う。

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10GHz、ATV実験での受信画面

実験を行ったのは室内。したがって距離も数mであったが、それだけに電界強度は高く、カラーテレビ画面上にカラーパターンとJA7NLのコールサイン、ATVの文字がくっきりと映し出された。しかし、その後は「屋外で実験したくとも仲間がおらず、私自身も呼びかけなかったため、それで終わってしまった」らしい。

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10GHz、ATV実験に使用した送信機

[新家電時代]

これからしばらく菊地さんが勤務した「八戸ナショナル販売」でのサラリーマン生活について触れておきたい。菊池さんが働いていた時代は、AV(オーディオ・ビデオ)機器を中心に家庭用電子機器の新技術開発が急速に進んだ時代であった。これら一連の新技術製品は「新家電製品」とか「マルチメディア製品」と呼ばれていたが、AV技術に詳しい菊池さんは販社勤務期間中のほとんどをこれらの商品の営業活動と技術支援の両面に割くことになった。

次々と登場してくる新技術製品の内容を販売店に紹介し、修理技術を研修する役割である。家電販売店の歴史の中でも、この急激な商品技術の変遷を迎えた当時の販売店がもっとも大変だったともいえる。事実勉強会では、製品の勉強のみでなく回路の動作等にも踏み込んでいる。これは半導体技術が急速に進んだことと、アナログからデジタルへの境目だったためでもある。次々に登場してくるAV商品を顧客の求めに応じて説明しなければならず、それが出来なければ顧客が離れていってしまうことになる。このため多くの販売店が真剣に販売会社の営業技術社員の話しを聞かざるをえない時代であった。

[白黒からカラーに]

菊地さんが営業技術担当となってしばらくは主力製品が白黒テレビからカラーテレビに切り替わる時代であった。カラーテレビは真空管式からトランジスター式へと移り、先に紹介したような据付の面倒はなくなり、また、製品品質も安定し故障も激減していった。このため、販売店も苦労することなく販売に取り組めるようになった。

しかし、カラーテレビに次いで新技術商品が続々と開発された。オーディオは昭和40年代の初めにCカセット(コンパクトカセット)テープレコーダーや8トラックカートリッジテープが登場する。Cカセットはそれまでのオープンリールタイプのテープレコーダーに取って代わり、録音の主力記録方式になっていく。

一方、8トラックカートリッジは普及が始まりつつあった車載用オーディオのカーステレオへの活用が始まり、のちにはカラオケソフトの重要なソースとなっていく。このような新しいオーディオ記録媒体が生まれる一方で、既存のレコード盤を使っての4チャンネルステレオの方式競争が始まったが、レコードそのものが新オーディオに飲みこまれていき、普及しなかった。

[ビデオレコーダーの登場]

テレビ放送の開始にともない画像を録画するVTR(ビデオテープレコーダー)の要望が高まってきた。すでに放送局などが使う放送用や一部の企業などが使う業務用は開発されていたが、小型で安価な家庭用の開発が始まった。昭和45年(1970年)には業界が規格統一した「Uマチック」の名称のVTRが発売され、さらに49年にはβ(ベータ)マックス、50年にはVHSの両方式のビデオが誕生する。

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ソニーのベータマックス第1号機

この両方式は家庭用ビデオとして世界の規格となり、その後VHSのみが残ったが、現在ではDVDやHDにその座を奪われつつある。一方、テープ媒体に対して、ディスク(円盤)の映像再生装置が早くも開発され、昭和53年にVHDプレヤーが56年にはLDプレヤーが発売される。ビデオに比較して必要な画像の検索が早いのが特徴であった。両方式も業界で競合したが、最終的にLDが生残り、業務用カラオケ用途としてもてはやされた。

[ビデオレコーダーの変遷]

VTRはVHSに集約されたが、カセットテープが大きく、したがってポータブルカメラ自体も大型になるため、メーカー各社はさまざまな開発を進めた。その結果、カセットを小型化した8ミリビデオが生まれ、さらに高画質化を図ったS-VHSが開発され、VHS-Cが登場し、さらにデジタルのDVCの誕生となった。

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日本ビクターのVHS第1号機

一方、オーディオも新技術開発が進み、デジタル時代に入った。昭和57年にはCD(コンパクトディスク)平成4年にはさらに小型化されたMD(ミニディスク)が開発された。この間、オープンリールテープの高音質とカセットテープの操作性を融合した、デジタルオーディオテープDAT等が開発されたが、主としてマニアの間では好評であったが市場を形成できなかった。

[デジタル時代]

このような流れは、一言でいうとAVのデジタル化であり、平成8年登場のDVD(デジタル・バーサタイル・ディスク)はその最終的な形態であった。ちなみに当初は(デジタル・ビデオ・ディスク)と名付けていたが、パソコンなどのメモリーにも使うことになり、途中で名称が変わった。これらのAVのデジタル化は家庭用情報機器を生み出した。

ポケットベル、自動車電話の通信系は携帯電話へと発展。また、電卓(電子式卓上計算機)は電子手帳へと進んだが、これらの融合商品としてワープロ(ワードプロセッサ)からPC(パソコン)へと動いていった。この結果「情報家電」という言葉が生まれたのもこの時代であった。

[サラリーマン生活終えん]

長々とAV商品、情報家電品の流れを書きつづけてきたが。これらはいずれも菊地さんの勤務時代の動きであった。「新家電商品」を総合的に扱い続けてきた菊地さんは、メーカーの事業部に対しても的確な助言を行うことも多かった。自ら商品を扱い、また、顧客と接触している販売店の声を広く吸収できる立場にいたからである。

やがて流通の合理化が始まる。青森県下の3販売会社は1社に集約され、菊地さんは青森市に転勤。約4年間の単身赴任を経て八戸に戻って定年を迎える。が「情報家電」担当で培った能力が評価され、その後の5年間を事務機器販売会社でPC関連担当として勤務。さらに青森に集約された販売会社は菊地さんを再雇用し、1年間勤務の後に最終的にサラリーマン生活を終えている。