[指導監査委員]

菊池さんは免許取得後「南部アマチュア無線クラブ」を皮切りに「八戸モービルクラブ」「八戸UHFグループ」などの会員としてJARLにかかわってきたが、その活動が認められて、JARLの監査指導委員となる。菊池さん自身もあいまいであり「記憶がはっきりしていないが保証認定の仕事に携わっていたこともある」と言う。

調べてみると、あいまいなのは当然であり、全国的に配置されていた「監査指導委員」が、東京の本部からの指示で、時に開局申請者を訪ねて申請書と実際の申請局設備とに誤りがないかを調べていたらしい。もう少し詳しく記すと、戦前もまた、戦後も開局する際は、必ず当時の電波監理局の検査(落成検査)を必要とした。

[保証認定]

ところが、「養成課程講習会」の実施などにともない新規開局が爆発的に増加、無線機の検査も簡易化され、それに代って実施されるJARLの保証認定を受ければ、検査は省略されるようになった。当時は自作と始まったばかりの市販品が混在していたが、ともに保証認定の対象となっていた。保証認定対象機器の出力は徐々に広げられ、現在では技術適合認定を受けた市販品は自動的に保証認定される仕組みになっている。

この保証認定申請は、JARL本部で行われていたが、明らかに誤って書かれた申請書や、疑問のある申請の場合は、申請局を調査することがあった。その調査員は別に名称があったわけでなく、不法局を指導する「監査指導員」にその役割を依頼していた。そのため、検査の局はまれであり、菊地さんが「そのようなことをしていた」とあいまいなのも当然であった。なお、その後このJARLが委託された「保証任認定」業務は、JARDさらにTSSの組織に移っている。

[評議員から支部長]

その後、菊池さんは青森県支部の「評議員」に選出される。「評議員」は、支部の運営について支部長を補佐する役割をもち、菊池さんが務めたのは昭和55年(1980年)から58年(1983年)の2期4年であった。次いで、菊池さんは青森支部長に選ばれ、JARL組織の青森県を託されたことになる。

JARLの組織はかつては10地区あるエリア単位の支部であったが、会員の増加にともない、昭和47年(1972年)にエリア単位に本部を設け、その下部組織として各都道府県に支部を置くことにした。菊池さんの支部長職は平成9年までの7期14年間に及んだ。この期間は、ほぼわが国のアマチュア無線局の数がピークに向った時期に重なる。

同時に青森県にとっては大きな変革やイベントのあった時期であった。昭和57年にはJARL直轄外の団体レピーター局が東北で初めて八戸に設置された。昭和63年(1988年)には北海道を結ぶ青函トンネルが開通し、その記念博覧会「青函博」が開催された。平成7年(1995年)にはJARL総会が弘前市で開かれ、これらの出来事ではいずれも評議員や支部長として菊池さんは音頭をとっている。

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青函博での記念局カードの一つ

[レピーター局]

「まさか東北で最初の団体レピーターが八戸に許可されるとは思っていなかった」と今でもその時のことを語る時、菊池さんはやや興奮気味である。電波と電波を中継し、より遠方と交信を可能とするレピーター局は、わが国ではすでに触れたスペシャライズド・コミュニケーションの各モードと同様に、欧米諸国と比較して大幅に免許が遅れた。

業を煮やしたJARLは、昭和56年(1981年)3月に「レピーター研究委員会」を設けて、当時の郵政省電波監理局に働きかけを開始した。しかし、電波管理局の動きは鈍かった。むしろ、他の新しい事業を許可するのにともない、免許せざるを得なくなってようやく動き出したといえる。

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JARLはレピーター開設の陳情を行った(アマチュア無線のあゆみ)

他の新しい動きとは何か。アマチュア無線衛星打ち上げのことであった。この打ち上げも欧米や当時のソ連にはるかに遅れをとっていた。米国は昭和36年(1961年)に「オスカー1号」を打ち上げ、その後も次々とアマチュア無線衛星を打ち上げた。また、ソ連は昭和53年(1978年)に2つの衛星を打ち上げ、他の欧州諸国も後を追う情勢にあった。

[第3者交信禁止]

このアマチュア無線衛星を巡ってはさまざまな話題がある。まず、当初は日本のハムは利用することが禁じられた。日本の電波法ではアマチュア無線の交信相手はハムでなければならず、第3者との通信は認められていなかった。このため衛星との通信は第3者通信に当たるとして許可されなかった。あわてたJARLは電波監理局と折衝、監理局は短時間で許可を与えている。

一方、日本独自の衛星打ち上げは相変わらず容易に許可されず、海外からは「日本はただで衛星を利用している」との批判が強まる。批判にさらされたJARLはやむなくドイツに対して打ち上げ支援のために5万米ドルを贈ったこともあった。JARLはこのような国際的な実情を監理局に報告し「衛星も持てない日本はアマチュア無線の先進国とは見られていない」と強談判したこともある。

[打ち上げ許可]

このような経緯の後、打ち上げの許可が出そうな情勢を先取りしたJARLは、昭和56年(1981年)9月に「アマチュア衛星打ち上げ準備委員会」を発足させて取り組みを始める。ここで再び問題が発生する。衛星のトランスポンダ(送受を行う中継器)により通信を中継することになると、許可していないレピーターを認めることになる。ここで、初めてレピーターの免許促進とつながってくる。

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わが国初のアマチュア無線衛星トランスポンダ(アマチュア無線のあゆみ)

一方、菊池さんはこのような国際的な情勢とは別に早くからレピーターの存在を知り、また、その必要性を感じていた。マチュア無線雑誌でレピーターを知っていた菊池さんは「VU波は交信距離に限界がある。どうしてもレピーターが欲しい」と思い続けていた。実際に米軍ハムが日本に設けているレピーターを使っている姿に、ますます必要性を感じていた。ワーカーさんのセスナ機で東京・厚木基地まで跳んだ時の体験だった。