[岡山で生まれる]

木村さんは、終戦直後の昭和23年(1948年)、5人兄弟の4番目、木村家の次男として岡山市で生まれた。当時の日本のアマチュア無線の状況といえば、戦後間もない時期であり日本人にはまだ免許が下りておらず、JARLを中心にアマチュア無線再開に向けた運動が行われている真っ最中であった。

木村さんの父親は当時鉄筋工事の請負の仕事を全国規模で行っており、その関係で幼少期に2度の引越しを経験している。生後大津市に移った後、3歳の時には岐阜市に転居した。岐阜市に移った父は長良川が流れ、金華山がそびえるその土地を気に入り、木村家はそのまま岐阜市に居をかまえることとなった。

小学6年の時、父親の仕事現場を見学に行った。長野県王滝村/牧尾ダム

[無線との出会い]

木村少年と無線との出会いは、岐阜市立長良小学校の3、4年生のころ、6歳年上の兄が、電池の要らないラジオが売られていると、デパートまでそのラジオのキットを買いに行ったことからであった。ゲルマニウムラジオである。すぐに兄と2人で組み立てに取りかかったが、当時の木村家には半田ごてがなかった。「何か代用品はないかと探したところ、父親の工具箱から、トタンを半田付けするコテを見つけ、炭火で焼いたコテを使ってなんとかラジオを完成させた」と言う。一方、アンテナは、庭先の竹藪に生えていた竹を切ってアンテナの支柱にし、ループアンテナを作った。「ラジオは動作し、東海ラジオなどを受信した」ことを覚えている。

兄と遊ぶ木村少年、10歳の頃

小学6年の時に、担任の先生から、卒業するにあたってなにか研究しなさいという課題をあたえられた。その際、友人から、「子供の科学」に回路が掲載されていたラジオを一緒に作ってみないかと誘われ、1石リフレックスラジオの製作に挑戦している。ますます電気への興味を深めた木村少年は、その後「初歩のラジオ」、「ラジオの製作」などを自ら購入して、知識を深めていく。アマチュア無線専門誌であったCQ誌も、「内容はあまり理解できなかったが、半年間ほど買い続けた」らしい。

余談ではあるが、木村少年は小学生から中学生にかけて、日本舞踊を習っていた。また、家には家庭教師が通って来ており、両親の子供にかける期待の大きさが伺える。と同時に当時の一般家庭と比較すると裕福な家庭であったと言えそうだ。

日本舞踊を習ってした頃の木村少年、14歳の頃

[SWL活動]

中学生になった木村少年は、父の5球スーパーラジオにアマチュアバンドに同調させる2バンド用コイルを入れて、毎日7MHzを受信した。当初はオフバンドで交信するアンカバーの電波を見つけたが、話している内容はおもしろくなく、少しチューニングをずらしたところ、技術的な話をしている正規のハムの電波を見つけ、その後は毎日ハムバンドに聞きいったという。「学校に行くと、クラスには同じように無線に興味をもちSWLを行っていた友人がおり、毎日の様に情報交換を行ったことを憶えている」と言う。

そのころの思い出では、「自作したSWLカードを5エリアのハムに郵送したところ、すぐに受信証明書(QSLカード)を送ってくれ大変感激した」と木村さんは語る。当時のQSLカードは宝物として今でも保存してあるそうだ。

JA5AZZ局から届いた宝物のQSLカード

偶然にも中学に教育実習でやってきた教育実習生がハムであり、アマチュア無線に興味をもつ木村少年を「家に来ないか」と誘ってくれ、友人と2人でお邪魔させてもらい、21MHzでの交信を見せてもらった。実際の交信を目の当たりにした木村少年は、「国家試験の受験を強く決意した」と言う。

[国家試験に挑む]

中学2年になった昭和37年、初めて無線従事者の国家試験に挑んだ。この時は、仲良くなったその友人と、さらには両家の親も含めて、4名で名古屋まで受験に行った。受験資格は電話級アマチュア無線技士だったが、結果は残念ながら不合格であった。「明らかに勉強不足であった」と木村さんは言う。

電話級アマチュア無線技士の国家試験は、電信級アマチュア無線技士の国家試験とともに、昭和34年から始まった。それまでの第1級,第2級に加えて、容易にハムとなる道を開いたもので、とくに電話級の創設は日本を世界一のアマチュア無線大国にした大きな要因の一つであることは、よく知られている。なお、当時の電話級は現在の第4級、電信級は第3級と名称が変更になっている。

中学時代の木村少年は、ラジオ以外にもドアセンサーなどを製作した。木村家では門と家の玄関が離れていたため、開き戸にセンサー(簡単なスイッチ)を取り付け、開き戸が開くと家の中の電灯が点灯するような仕組みのものだったらしい。木村さんは電波少年というより、どちらかというと電気少年であったようだ。

中学3年には、夏休みの自由工作として3A5を使用した50MHz用の超再生トランシーバーを作った。しかし、うまく動作しなかった。途方に暮れていた時、偶然に見つけたダイポールアンテナを張った家を訪ね、少年らしい素直さでその家のハムに頼み込み、色々と指導してもらい、なんとか仕上げた。完成後は、もちろんまだ免許を受けていなかった。