[電話級アマチュア無線技士を取得]

中学卒業後、高校の夜間部に進学した。実は木村家では、木村少年が中学1年の時に父親が急逝し、収入を得るために働かざるを得なかったためだ。昼間は仕事(図書館の司書の手伝い)、夜は通学という生活になったが、それでもアマチュア無線の熱は冷めず、高校1年の10月期の電話級アマチュア無線技士国家試験を受験し合格。この時のことははっきりと覚えており、「合格者を掲載する新聞が発行される日の早朝、朝刊が配達されるのを布団の中で耳を澄ませて待ちわびていた」と言う。

この合格を知った2番目の姉は、木村少年のために、冬のボーナスで送信機のキットを買ってくれた。2番目の姉はその年の4月に就職したばかりであり、当時の給与額から考えると、もらったボーナスのほぼ全額を使ってくれたらしい。当初、姉からのこの申し出を聞いた木村少年は、大変びっくりし、これを受けてもいいものかと母に相談したが、母は「姉の好意なので買ってもらいなさい。でもこのことは一生忘れてはいけないよ」といってくれた。木村少年は「姉の申し出を素直に受け入れることにした」ことを憶えている。

電話級アマチュア無線技士国家試験の合格証書

ついに手にした電話級アマチュア無線技士の免許証。発行者は郵政大臣

送信機キットを手に入れた木村少年は、仕事と勉強で忙しい中でも時間を作ってなんとか完成させた。ところが当時の送信機キットは、ファイナルの真空管が付属されておらず、これは別途買い求める必要があった。当時の木村少年にはそこまでの余裕がなかったため、友人より807を借用して送信機を調整したそうだ。

一方、受信機の方は、父親の形見となった5球スーパーを使用していたが、2バンドコイルに変えて、ミゼットバリコンでバンドスプリットをする方式にした。この改造で同調における操作性が格段に向上したそうだ。なお、無線従事者免許取得後、個人局の免許を受けるまでの間は、社団局の免許と無線設備を使い、友人とともに移動運用やコンテストなどを楽しんだ。
[詐欺に遭う]

他人の807をいつまでも借りているわけにいかず、自分の真空管を入手しようと中古の807を探していた時のこと、1年先輩の知人から「807の余りがあるので売ってやる」という話をもらった。価格も手ごろだったので、木村少年は有り金をはたいて購入した。喜んで持ち帰り、自分の送信機に差し込んだ。ところが電波が出ない。色々と調整を取り直しても電波が出ない。そのため、どこかの回路が故障したと思い、1週間かけて送信機のすべての回路をチェックした。しかしどこにも異常はなく、結果は中古で購入した807が動作していないことがわかった。そのことを売主に報告したところ、はじめは「知らん」と一蹴された。しかし木村少年が、「電波が出ないから返す」と食い下がると、「だまされたお前が悪い」と、開き直って結局返品には応じてくれなかった。「詐欺の被害にあったことになるが、このときほど悔しい思いはしたことがない」と木村さんは当時を振り返る。

翌年4月、通常だとそのまま夜間部の2年に進学するが、木村少年は昼間部に入学しなおしている。仕事と学業の両立で身体的に限界がきて、体を悪くしてしまったからである。ただし、家族からは、普通科への進学はつぶしが効かないとの理由で入学は許されず、仕事に直結する学科への入学が許され、岐阜農林高等学校の林業課を選んだ。

開局当時の免許状。今と違って免許状本体には呼出符号(コールサイン)が記載されておらず、事項書の方に記載されていた

[JA2HDE開局]

岐阜農林高等学校に入学すると、すぐに無線局の開局申請を行い、昭和40年6月、ついにJA2HDEの局免を受領。メインハンドは7MHzで、アンテナは、10mぐらいの長尺の竹竿を2本マストにしてダイポールを張っていた。もちろん免許取得後は毎晩のように運用した。家族からはよく「アマチュア無線で、飯が食えるか!」と冷やかされたと、木村さんは当時を思い出す。さらに、同じ年の8月には友人たちと社団局JA2YGH(クレイジークラブ、その後は鵜飼クラブに改名)まで開局した。

開局数ヶ月後のJA2HDEシャック風景

高校2年になると、推薦されて、ラジオ岐阜の番組である「アマチュア無線局訪問」の取材を受けた。5分間の番組ではあったが、初めてラジオに出演した。取材はゼンマイ式のデンスケで行われ、ラジオ局からの質問に木村少年が答えるもので、木村さんは、将来の夢として「モービルハムになりたい」と語ったことを憶えている。

[移動運用]

運用は、自宅からだけでなく、友人らとよく岐阜の金華山などに登り、主に50MHzで名古屋方面の局とQSOして楽しんだ。互いにビームアンテナを向けあうと大変よく入感したそうだ。また、当時もよくEスポが出ていたため、「Eスポで遠距離通信も楽しむことができた」らしい。

木村少年らが登った金華山は岐阜市の中央に位置し、かつては稲葉山と呼ばれていた標高329mの峰。山頂には岐阜城がそびえ、戦国時代には歴史の舞台にたびたび登場しており、現在ではアマチュア無線用のレピータも設置されている。

金華山への移動運用時のスナップ。背後に岐阜城が見える