[自由なレピータが欲しい]

昭和57年3月、東京のJARL連盟事務局に設置されたレピータに日本で初めて免許が下りた。(JR1WA)。すぐに各エリアにもJARL直轄局が免許され、東海地区では名古屋市内広小路にあった東海地方事務局にJR2WAが開局した。その後、エリア内ではJR2WBを筆頭に団体局が次々に開局していった。

JR1WA開局時のスナップ---「アマチュア無線のあゆみ(続)」より

先にも少し述べたが、団体局については、ぞれぞれのレピータ管理団体が、機材の調達、設置から維持管理まで行う。その管理団体の主体は地元のアマチュア無線クラブであるため、クラブ員でないとレピータには出にくかった。このような事情から、当時の愛知県支部役員の間で「クラブとは無関係のレピータが欲しいね」という話が出た。すぐに話がまとまり、当時支部長だった杉山正(JH2XPV)さん、支部幹事の木村さんを含めて4人ほどで、「じゃあ我々で準備しようじゃないか」ということになった。

しかし、問題になったのは資金の調達であった。4人で資金を分担するには荷が重い。そこで、木村さんは「誰でも、いつでも、気軽に使えます」をキャッチフレーズにした趣意書を作った。それを口コミで配布し賛同者を募ったところ数十人が集まり、まずは小さな組織(後に「JR2VK局管理団体」となる)ができた。また、レピータ設置の申し込みも承認され、開局の準備に入った。

[レピータの自作]

レピータを開局するには、レピータ装置本体の調達だけでなく、アンテナ系統、さらには局舎なども必要になる。またAC電源が無いところに局を設置するには、電源の確保も行わなければならず、そのため相応の費用がかかる。小さな組織はできたものの、開局するのにはまだ資金量が十分ではなかった。技術に自信のあった木村さんは、打ち合わせの席上で、「レピータは私が作る」と言ってしまった。発言したまでは良かったが、「実はレピータのシステムについて十分な知識は持ってなかった」と木村さんはその時のこと明かす。

当時、JARLは、日本国内でアマチュア無線のレピータをあげるため、レピータ先進国であった米国などの情勢を調査していた。さらにレピータ特集記事がアマチュア無線雑誌「ハムジャーナル」に掲載された。木村さんは、「ハムジャーナル」の記事を参考に、コントロール回路やID発生器を自作した。送受信回路については、アマチュア無線用のトランシーバーを送信用基板と受信用基板に分離してレピータ装置を作り上げた。

設置場所については、当時、名古屋市の東部にレピータが一基もなかったため、木村さんが住んでいた日進市周辺に設置することになった。レピータを設置するからには、できるだけロケーションがよいところがよい。カバーできるエリアが広くなりより便利になるからだ。最終的に、木村さんの自宅から700~800mの距離にあるお寺(五色園大安寺)の給水塔の上に設置させてもらうことになった。海抜は120~130m前後。見通しも良く飛びも期待できる場所だった。さらに有事の際にはすぐに駆けつけられる距離でもあった。そのお寺の住職とは、以前からボートスカウトの活動でよく顔を合わせており、「住職に趣旨を話したところ、快諾を得られた」そうだ。

お寺の山の給水塔に設置されたJR2VK

開局のころには、組織のメンバーは50~60人となっていた。レピータを設置するにあたり、給水塔のある山の麓の電柱から山の上の給水塔までACの電線を引かねばならなかったが、メンバーに電気工事屋がいたため、苦労はなかったという。また、局舎となるレピータ装置の収納箱についても、メンバーの大工さんが作ってくれた。このように様々な職業のメンバーがおり、皆それぞれの得意ジャンルで協力を惜しまなかったという。

[免許が下りる]

自作のレピータ装置が完成するのと前後して、レピータ開局申請も行い無事に免許は下りた。コールサインはJR2VKと決まり、昭和59年10月20日に開局した。開局した日のエピソードがある。その日に開局することを知っていた、当時のJARL東海事務局長・森一雄(JA2ZP)さんは、ハンディ機を使ってさっそくJR2VKにアクセスしてみた。「予想を遙かに超える信号強度でレピータからのダウンリンクが受信できた」と当時を語る。レピータの設置場所と森さんの運用場所とは約12km離れている。そのため、森さんは「規定どおりの設備か心配になった」と言う。もちろん出力は10Wであったが、それだけ設置場所のロケーションが良かったことが分かる。

JR2VKユーザーの集い-春の花見会

ようやく開局にこぎ着けたJR2VKは、当初の目的であった「誰でも、いつでも、気軽に使えます」を実践し、設置場所のロケーションの良さも相まってユーザーがどんどん増え、電波が出ていない時間の方が少ないくらいの人気レピータとなった。一方、それだけ使用頻度が高くなるとハード的な負担は大きく、さらに設置場所は山の上のため、風が強く、気温の変化も激しいため当初は月に何回か故障したそうだ。特に真夏と真冬に具合が悪くなることが多かったそうだ。

故障するたびに給水塔に登ってレピータを降ろし、木村さんの自宅シャックに運んで修理する必要があった。レピータの調子が悪くなると、その日の夜には必ず仕事を終えた仲間が自発的にレピータサイトに集まり、皆で協力してレピータ装置を給水塔から降ろし、修理が終わるとまた設置した。「完璧に修理し調整も終わって給水塔の上への設置を終え、自宅に戻ってアクセスしてみると、また動かなくなっていたこともあった。時には週の半分くらいレピータを修理していたこともあった」と言う。その様子を見ていた奥様が書いた投稿が、「CQ」誌1987年8月号に掲載されている。

ここで、その内容を少し紹介させてもらうと、「屋根の蜂の巣さえ取ってくれない高所恐怖症の夫(木村さん)が、無線のためなら、屋根より高い給水塔に登ってしまうことに驚いた。レピータが故障したときには、我先にとボランティアで駆けつけるアマチュア無線仲間の友情に感激した。自分も免許は取ったものの、何がおもしろいのかよく分からず、何年もオンエアしていなかったが、夫がワッチするJR2VKを聞いているうちに、その楽しさが分かり、アマチュア無線好きになった」というのがその内容である。