[CBCラジオ]

平成7年、地元CBCラジオ(中部日本放送)に出演した。朝の番組「おはようCBC」であった。この番組は車で通勤しているリスナーを対象とした番組で、1週間だけアマチュア無線特集を組んだことがあり、その週は月曜から金曜までの5日間、木村さんを含めて5名のハムが出演した。

放送当日は、木村さんの自宅まで2名の女性が中継車に乗ってやってきたが、中継車からの電波が局に届かなかったため、本番前に電話に切り替えた。出演は、イヤホンでラジオ放送を聞きながら生放送に飛び込み、というスタイルだった。木村さんは「声の遅延などはなく、アナログそのままの音声処理だった」ことを記憶している。

放送中はレピータ局JR2VKの話を中心にしゃべったが、話す内容は事前にCBCラジオと打ち合わせをしていたため、「緊張もなく楽であった」と言う。番組のアナウンサーからの質問も、事前の打ち合わせの内容に関するもので、「レピータとはなんですか」、「どんな人が出ていますか」、とか「どんな話をするのですか」、といった内容であった。

[大分放送]

平成8年、第38回JARL通常総会が大分県別府市で開催されたが、大分放送では、JARL総会が開催される少し前から、アマチュア無線に関するラジオ番組を放送していた。当時のJARL大分県支部長・國廣秀光(JH6ARA)さんもアマチュア無線の普及のために協力し、自ら出演もしていた。番組内には、各地のアマチュア無線家を紹介するコーナーがあり、ある日、木村さんのところに、大分県支部長から紹介を受けた大分放送から「愛知県支部長、ラジオに出演して頂けませんか」と電話があった。アマチュア無線を普及する番組ということであり、木村さんはもちろん快諾した。

大分県別府市で開催された第38回JARL通常総会(愛称:べっぷ総会)「アマチュア無線のあゆみ(III)」より

出演に先立って、まずは電話で事前の打ち合わせがあり、「名古屋のご当地性を出して欲しい」と依頼された。出演のスタイルは、CBCラジオと同じで、電話による生放送への飛び込みで、時間にして4、5分間だったことを憶えている。

番組はアナウンサーとの質疑応答がメインで、「名古屋の嫁入りは派手だそうですね。木村さんの時もそうだったのですか」とか、「おすすめの観光スポットを紹介してください」といった内容で、アマチュア無線自体の話はあまり無かったそうだ。全国のアマチュア無線家が地元を紹介する、という感じであったと木村さんは言う。

高校生の時に出演したラジオ岐阜、前年のCBCラジオに続き、「大分放送はラジオへの3回目の出演であったため、ずいぶん慣れてきていた」と言う。

[中国との交流]

昭和63年、JARLは井波理事(JA6AV)を団長に中国南京市のBY4RSAを表敬訪問をしている。その際団員として同行した杉山副会長(当時は理事)が知り合った中国側の関係者から、後日、一度みなで中国に来ないかという誘いがあった。そこで「JARL愛知県支部として交流しよう」ということになり、平成8年に十数人で訪中した。それをきっかけに交流がはじまった。

木村さんは、いつも中国側スタッフとの打ち合わせが多かったため、あまりアマチュア無線局を実運用する時間が確保できなかったが、他のメンバーは積極的に現地のクラブ局から運用した。なお、中国での無線免許については、日本の無線従事者免許をベースに事前に申請し、出発前に運用許可証が事前に送られてきていた。

交流は始まったものの、費用の問題があるため木村さんはルールを作った。そのルールとは、相手の国に行く渡航費用、および相手の国での滞在費用は、すべて訪問する側が負担するというものだった。これは当然といえば当然だが、日本と中国の物価に大きな差があるために、日本側スタッフに負担がかかりすぎないようにするための配慮だった。この交流は、JARL愛知県支部と、江蘇省南京市無線電運動協会(BY4RSA)および江蘇省蘇州市無線電運動協会(BY4SZ)の間で行われており、今でもほぼ一年おきに行き来している。


中国での運用許可証

何回か目の訪中時、木村さんは、これまでによく世話をしてくれた中国のハムに、お礼にと430MHzのハンディ機を寄贈した。すると、そのハムは「個人局を開局できる」と飛び上がって喜んだ。日本と同じように中国でも無線機がないと個人局の開局はできない制度があり、そのため当時中国には個人局はほとんど無かった。