[地方本部長になる]

平成12年(2000年)に行われたJARL通常選挙の結果、東海地方本部長に選ばれた。この時も愛知県支部長になった時と同様に、結果的には前地方本部長だった百武(JA2CBC)さんの後を引き継ぐことになったが、今回は自ら進んで立候補したのではなく、依頼されての立候補だった。

選挙に先駆けた平成12年(2000年)3月、全国にあるJARL地方事務局の閉局が決まり、東海も閉局に向けての準備が進められていた。木村さんは当然ながら、地方本部の運営、地方事務局の運営について、すべてを把握していたわけでなかったため、事務局閉局後の見通しが立たずに躊躇していた。立候補を依頼された当初は「事務局閉局後の地方本部の活動が、軌道に乗ったら考えます」と立場を保留していたが、選挙の告示後、誰も立候補者が現れなかったため、木村さんに白羽の矢がたった。事務局閉局後の事務処理がこなせるのは、木村さんしかいないと周囲はみていたといえる。

[膨大な事務量]

東海地方本部長に就任すると、予想していたとおり事務局閉局後は制度が変わり、事務の方法も大きく変わった。従来は事務局に任せていた事務作業を、基本的には本部長がすべてを引き受けることになった。東海地区の場合は、管轄の4県(愛知、岐阜、三重、静岡)分の事務処理を行う必要があり、それらは膨大な事務量であった。「仕事をもちながらこれらの事務処理を行うのは想像を絶するものであり、慣れるまでに数年かかった」と言う。

東海地方事務局閉局式典 --- 森一雄さん提供

事務局が無くなったことから、各支部や、役員への連絡方法も課題であったが、これはインターネットの普及により、何とか乗り切れるようになってきたと言う。「事務局があった時の、半分くらいの量しかこなせていないのではないか」と、木村さんは謙遜している。

事務処理以外にも事務局の閉局による問題はあった。事務局には長年の間に蓄積した数多くの資料が保存されていたが、閉局によりこれの保管場所が無くなってしまう。特に重要な物だけは、段ボール箱数箱に分けて、保存することにした。「これらの資料は東海の宝物だ」と木村さんは話す。

一方、地方本部長になるとJARLの理事会に出席する必要がある。理事会以外にも委員会や審査会などがあり、これらは通常、東京の連盟事務局で行われるため、多忙を極めた。特に平日に会議を設定されると、勤め人としては、そのために年休を申請しなければならないので、苦労が多かったそうだ。
[支部も廃止?]

地方事務局の閉局に関しては、会員との接触点が無くなってしまうという理由で、木村さんは反対であったが、事務局の閉局案と同時進行で、支部をなくすという案もあった。もちろん支部の廃止にも反対であった。理由は、支部こそが地域の会員サービスの拠点となるからだ。結果的には、地方事務局の閉局はやむを得ないにせよ、支部は残ることになり、今でも各支部は全国で活発的に活動を続けている。

「おもしろそうだからと、支部の行事を手伝ってみたいと申し出てくれるハムもおられる、JARLへの入会をお願いすると入ってくれる。特に愛知万博の時など、ボランティアで特別記念局(8J2AI)の運用を手伝いたいと、非会員のハムが何人も入会してくれた」そうだ。「これはやはり支部があってのことだ」と木村さんは支部の存在を重視している。

平成6年(1994年)の19万人をピークに減少を続けているJARL会員数ではあるが、徐々に減少率が小さくなってきており、支部によっては瞬間的数値であるがプラスに転じたところもある。この理由の一つとして、各支部の地道な努力の成果が出てきていることを見逃してはならない。

[再活性化に向けて]

平成17年(2005年)10月、3級アマの試験では電気通信術の実技試験が廃止され、記述試験のみになったため大幅に受験者がふえた。木村さんの所属しているクラブでも「3級アマ受験を予定している部員が何人かいる。また昨年末、休眠状態のクラブの有志で忘年会をやったところ、そろそろ自分たちも定年を迎え暇になるので、もう一度立ち上げようかという話も出た」と今後の展望に木村さんは期待している。

「2007年問題」といわれ、団塊世代の大量リタイアが話題となっているが、リタイア組のアマチュア無線へのカムバックが多いのも事実。そのため、もう一度クラブを建て直そうかという動きが全国各地である。木村さんは、昔アクティブに運用していたハムの1人でも多くが、アマチュア無線に戻ってきてくれることを願っている。