[中国人留学生の受け入れ]

木村さんは、平成12年(2000年)に南京で開催された、ARDF世界大会に自費で参加したが、現地で、大会の役員をしていた中国の古くからの友人から「知人の娘さんを日本に留学させたい」と相談を受けた。とりあえずその女性とホテルのロビーで会ってみた。その際、「日本で留学することは大変だよ」という話をして、依頼に対しては即答をせず、持ち帰って検討することにした。

帰国して家族とも検討した結果、留学を引き受けることにした。引き受けると簡単にいっても、入学の事務手続きや住居探しだけをするのではなく、入国続きを始め、在日中のすべての面倒を見る必要があった。地方本部長になって多忙を極めていた木村さんであるが、「中国の友人の為にも、また、これからは国民同士の交流を深めることにより、日中の交流の輪が広がるのではないか」と考えた。「当時としては、まだ中国からの留学生の受け入れに対して厳しかっただけに、留学の希望をかなえてあげたい」という思いで、受け入れを決意した。

[李 彦(り げん)さん]

平成13年(2001年)3月、その李 彦さんが来日した。南京で面談したとき、「素直で目的意識がハッキリしている」と感じたが、判断は間違っていなかった。彼女は、中国で大学を卒業していたが、3年制の学校だったため、日本では大卒とは認められずに、短大卒という資格であった。

彼女は中国である程度の日本語の勉強はしていたものの、日本人の学生に混ざって、いきなり日本語の授業を受けても理解できないので。研究生で受け入れようと考えた。勤務先の名古屋大学の中で、研究生を受け入れているところを探し、なによりまずは日本語を勉強した方が良いと考え、言語学部に相談に行った。その結果、言語学部で受け入れてもらえることになった。

木村さんの奥様(JR2NPI)と李彦さん

名古屋大学の研究生として入学し、1年間勉強して日本語の授業にもついていけるようになった彼女は、1年後に中京大学の経済学部を受験して合格した。経済は、彼女がもっとも勉強したいジャンルであった。名古屋大学在学中は留学生会館へ入居できるまでの1ヶ月ほど木村さんの家に下宿していたが、台所を手伝うなど彼女なりに努力していたようだ。

南京にあるヨーロッパブランドの自動車販売会社の社長を父に持つ彼女は、中国の一人っ子政策で、どちらかというと甘やかされて育っている。両親の反対を押し切って自分の意志を貫いたとはいえ、二十歳を過ぎたばかりで突然の外国生活のこと、来日当初はホームシックにかかり自分の部屋で夜になるとよく泣いていたという。その後、在学中に外国人留学生の仲間もでき、中京大学に入学すると同時に、彼女は友人と2人でアパートを借り、そこに引っ越した。

生活は別々となったものの、登校前によく木村さんの研究室に立ち寄って、身の回りの話や相談を行った。勤勉家であった彼女は、多くの日本人学生とは授業に対する取り組む姿勢が異なり、「日本の学生は授業中に私語を交わしうるさい」と、木村さんによく漏らしていた。李さんは4年間で中京大学を卒業した後に帰国し、日本と貿易をしている企業に就職して、彼女の念願である中国と日本の橋渡しをしている。

[謝 旻(しゃ みん)さん]

李 彦さんは依頼を受けた中国の友人の知人の娘であったが、彼女の留学の受け入れから2年後の平成15年(2003年)、その中国の友人が、今度は実の息子を留学させたいと頼んできた。面倒見の良い木村さんは、再度承諾した。勿論、彼とも以前に中国で会っている。

本年度の愛知学院大学大学院の修了記念レセプション。最後列左側が謝旻さん。

彼は自分の専門であるコンピュータの勉強を希望していた。受け入れ先の学校を探した結果、彼を愛知学院大学に入学させることにした。入国する前の試験なので国外からの受験となるが、私学では代理受験が可能だったため、彼の入学試験は木村さんが代理で諮問受験し、問題なく合格した。合格後の4月、謝 旻さんは来日した。彼も中国で日本語を勉強してきたが、初めの1年間は愛知学院大学の別科で日本語を学び、その後、自ら同大学の学部試験を受けて合格。2年目に経営学部に入学した。彼の父親は南京市外事局の部長を務める公務員であり、彼も甘やかされて育ったが、さすがに男の子である。日本に来て心身ともに、たくましく成長した。

彼も中国では3年制の大学卒業であったため、日本では短大卒の資格しかなかったが、学部入学1年後、彼が大学側と個人的に交渉した結果、中国の3年と日本での学部の1年をあわせて4年となるため、大学院の受験資格が認められた。さっそく同大学の大学院を受験した彼はみごと合格し、来日3年目には大学院生となっていた。その彼も本年(2007年)3月に修士課程を修了となる。

「この中国からの留学生たちを受け入れ、それなりに若い二人の援助ができたことは、アマチュア無線家である私、JR2NPI(妻)、JK2KOV(長男)、JH2LON(次男)の家族四人にとって負担も大きかったが、とても有意義であったと満足しているし、今後もこのような機会に恵まれたら是非、力になりたいと思う」と木村さんは話す。

[ながら川総会]

本部長になって2期目の平成14年(2002年)、岐阜市・長良川国際会議場で第44回JARL通常総会(愛称:ながら川総会)が開催された。JARL総会はほぼ2年前から開催の準備がスタートする。木村さんが本部長になると同時に、この「ながら川総会」の準備が始められた。

ながら川総会特別記念局(8J2GIF)のQSLカード

まず東海4県のどこの県で開催するか決めなければならない。過去に、愛知県、静岡県、三重県は開催済みのため、結果的に未開催県である岐阜県で開催することになった。岐阜県での開催は決まったものの、昔と違い多くの問題を抱える総会を失敗のないものにすべく、準備、運営については岐阜県支部にすべて任せるのではなく、東海4県が合同で組織した実行委員会を設置することにした。

その結果、実行委員長には愛知県支部長の種村一郎(JG2GFX)さんが決まり、副委員長は、愛知県支部以外の各県支部長が就いた。実行委員会を4県の会員で構成したことは、隅々まで細かい配慮が行き届くこととなり、結果的には上手くいった。「全ての事柄に対応するため、身障者を家族にもつハムにも実行委員になってもらい、身障者に対する配慮にも努力した」と木村さんは話す。

[総会議事運営規定]

ながら川総会でのトピックは、前年に施行された総会議事運営規定に従って議事が進行されたことだ。それ以前のJARL総会は議事運営についての規定がなかったため、議事がスムーズに進まない総会も度々あった。そのため、ルール作りが必要と理事会で決まった。規定を作った目的は、議事をスムーズに進行させるとともに、すべての会員が、気持ちよく意見を発言できるような総会にしよう、という趣旨であった。理事就任間もない木村さんは「素人の木村が総会と、この規定を旨く融合させて運営できるのか」と言う周囲の空気を肌で感じていたという。

JARLは総会議事運営規定の策定にあたり、まずは検討委員会が素案作りを行い、その後、検討委員会のメンバーが、ながら川総会の実行委員会に素案をもって参加し、実行委員と白熱した議論を重ねて、理事会への提出案に仕上げた。平成13年(2001年)11月26日の第448回理事会で規定が承認され、即日施行された。規定された主な内容は、「委任状は前々日までに連盟に必着」、「質問は7日前までに準備書面を提出」などであった。

ながら川総会は、この総会議事運営規定が適用された初めての総会となったが、その成果が現れ、議事はトラブル無く進行し、総会はほぼ予定時間どおりに終了した。この規定は以後の総会でも継承され、機能している。