JA6FOF 郡山 勝視氏
No.1 仙台電波高校に入学する
[千貫村で生まれる]
1937年(昭和12年)4月25日、郡山さんは8人兄弟の3番目、農家の次男として宮城県名取郡千貫村(現岩沼市)で生まれた。上には兄と姉がおり、郡山さんの次には5人の妹が後に誕生することになる。今では8人も子供を作るという夫婦はほとんどないが、戦前の日本、特に地方の農家では、それほど珍しいことではなかった。なお、千貫村については、1955年に隣の玉浦村、(旧)岩沼町と合併して(新)岩沼町になり、岩沼町は1971年に市制を施行して岩沼市となり現在に至っている。
1944年、郡山さんは千貫国民学校に入学し、2年生の時に終戦を迎える。1950年に戦後改名となった千貫小学校を卒業し、千貫中学校に入学する。中学3年になると進学か就職かの進路を決めることになるが、郡山さんは農家の次男のため、父親からは「田畑はやれんから、手に職をつけて出て行け」と言われていた。当初は、商業高校に通っていた近所の先輩の影響を受け、商業高校への進学を考えていたという。
小学6年の時のスナップ。(前列左から3番目が郡山さん。後ろには二宮金次郎像が見える)
しかし、従兄弟が仙台電波高等学校に通っていた千貫中学校の同級生から、「仙台電波は就職率が良い。100%だ」という話を聞いた。さらに、仙台電波は国立高校なので授業料も安い。実際に宮城県立や仙台市立の公立高校よりも安かった。授業料が安くて就職率100%なら言うことはないので受けてみようと郡山さんは考えた。もし国立の仙台電波に落ちても、公立高校の試験日とは別なので、改めて公立高校を受け直すことができることも理由のひとつであった。
[仙台電波高等学校を受験]
郡山さんは、受験願書を提出して試験に挑んだ。募集人数は80人、試験は筆記試験だけだった。試験当日は、親が付いてくる受験者もいるので狭い校庭に人があふれるくらいおり、「こんなに居たら、通る訳無いな」と思い、気が楽になったことを覚えている。千貫中学校からは5人受験し2名が合格したが、郡山さんは合格組だった。「気が楽になったのがかえって良かったと思います」と受験当時を思い出す。
国立仙台電波高等学校(以下、仙台電波高校)は、現在仙台電波高等専門学校(仙台電波高専)になり5年制の高専だが、当時は本科でも3年制だった。郡山さんが入学した本科の他には、第1別科、第2別科、専攻科があり、それらはすべて1年のコースだった。中卒で入学できるのは本科か第1別科だけで、第2別科の受験には第3級無線通信士の免許が必要、また専攻科の受験には高卒の資格を必要としていた。
第1別科は中卒でも入学できたが、1年のコースではなかなか第3級無線通信士の資格は取れないため、比較的易しい電話級無線通信士の資格を取得して漁船に乗るという学生が多かった。一方、専攻科の定員は40人で、本科(80人)を卒業したちょうど半分くらいが専攻科に進んだ。他の高校を卒業してからから専攻科に入学する学生も希にはいたが、ほとんどは本科の卒業生だったという。中には、普通高校を卒業後にまずは第1別科に入学し、第3級無線通信士の資格を取ってから第2別科に進む学生もいた。
後で分かったことだが、郡山さんが受験したときの本科の競争率は9.7倍という狭き門だった。80人の募集に対して、800人近くが受験していたことになる。もっとも、前述のように国立である仙台電波高校の試験日は、公立高校の試験日と異なっていたため、「ダメ元、冷やかしで受ける受験生も多かったと思います」、郡山さんは話す。
仙台電波高等学校の正面玄関。(当時)
[アマチュア無線を知る]
1953年4月、郡山さんは仙台電波高校本科に入学する。高校1年の時から電信の送信、受信の授業が毎日あり、次第に腕を上げていく。高校2年になると、第3級無線通信士の国家試験に挑み1発で合格を果たす。その頃、同じクラスにアマチュア無線を始めた学生がいた。JA7DT三島さんであった。当時アマチュア無線局を開局するには、必ず落成検査を受ける必要があったが、自宅まで検査に来てもらうと費用がかかるため、高校生であった三島さんは、自分で作った機械を学校と同じ仙台市内にあった東北電波監理局に持ち込んで落成検査を受けたという。
三島さんは学校に通学する足で東北電波監理局に行って検査を受けたため、検査修了後に機械を学校にも持ってきた。郡山さんはそれを見せてもらい、その時初めてアマチュア無線のことを知ったという。郡山さんはその時点ですでに第3級無線通信士(以下3通)の資格を持っており、このプロの3通は、第2級アマチュア無線技士の操作が許されるため、アマチュア無線局を開局する資格は満たしていた。自分もやってみたいと思いアイデアを練った。
高校1年生の郡山さん。
自宅は農家なので、幸いにも土地はいくらでもあり、庭の端に小屋を造って、半分をアマチュア無線のシャックに、残りの半分は写真用の暗室にしようと計画した。しかしながら、送信機や受信機を製作する費用の問題もあって、結局、開局はあきらめざるを得なかった。三島さんの他には、後に開局するJA7NU伊深さんも同級生だった。
[部活動]
その頃、郡山さんは写真部に所属していた。高校1年の時は卓球部に所属していたが、元々背が低めだったこともあり思ったほど上達しなかったため、高校2年で卓球をあきらめ、写真部に入部したのである。写真部では、撮影から現像まですべて部員が行った。カメラはクラブに1台あったものを皆で使いまわした。印画紙や現像液はクラブ費で賄うのであまりお金はかからなかったという。しかし、無線用のシャックをあきらめると同時に写真用の暗室もあきらめることとなった。
高校3年になると山岳部に入部し、泉が岳、蔵王、栗駒山など1000m級の山を中心に登った。ただし汽車賃は自前なので、「交通費がばかにならず、そうそうホイホイとは行けませんでした」、「ある時は、経費節約のため温泉旅館の庭にテントを張らせてもらって野宿し、旅館の好意で温泉には入れてもらったこともありました」と話す。