[2通を取得]

高校3年となり、進路を決める時期となる。本科生80人の内、半分くらいは専攻科に進んだが、郡山さんは、父親が前年にリタイアしており、そのため村役場に勤めていた兄と力を合わせて妹4人を養って行く必要があったため、就職する道を選んだ。通信士を志望し、高校3年の12月に第2級無線通信士(以下2通)の国家試験に挑む。結果は見事に合格、2月に無線従事者免許証を受領、船会社に就職する道が開けた。

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第2級無線通信士の無線従事者免許証。

余談ではあるが、当時の無線従事者免許には5年間の有効期限があった。しかし1958年に有効期限が廃止され一生有効の免許となったため、郡山さんの2通免許も上の写真のように免許の日の訂正を受けた。ちなみに、当時は上級に合格すると下級の免許証は返納する義務があったため、郡山さんの手元に3通の免許証は残っていない。

話を戻し、本科3年の間に2通を取得したのは、10数人しかいなかったとは言うが、「できの良い同級生で1通までとったのが2人いました」と郡山さんは謙遜する。変わり種では、通信士でなく技術士を目指し、第一級無線技術士を取得した同級生もいたという。資格を取らなかった同級生は、郵便局員とか、航空自衛隊などに就職した。また、通信士の資格を取っても、電電公社やNHKに就職した同級生もいた。

[漁船に乗る]

郡山さんは、2通を取得した後1956年3月に卒業することになったが、2通の資格だけで外航船をもつ船会社は雇ってくれなかった。正確には採用がなった。採用してもらうには、無線通信士免許とは別に、船に乗るための海技免状が必要であった。また、海技免状の試験を受験するには、半年の乗船経歴が必要であった。そのため、郡山さんは、学校の推薦で、青森にあった個人商店に就職し、漁船に乗った。

郡山さんは、海上保安庁の採用試験にも合格したが、当時の海上保安庁は給料が安く、本給は3200円だったという。それが船なら本給が7200円で、さらに実際に船に乗れば、航海日当などの手当が色々と付いてさらに倍になったという。「海上保安庁に入庁すれば、寮費ぐらいはタダかも知れませんが、船会社の給料を上回ることはないだろうと判断して、漁船を選びました」と話す。

郡山さんが乗ったのは80トンぐらいの漁船で、捕った魚を運搬する船だった。その船には電信装置は付いておらず、電話しかなかったため、無線電話機で通信を行った。就職後3ヶ月ほどして小樽に入港したとき、2000トンくらいの船舶に乗っている通信士と話す機会があり、色々と話を聞いたところ、電話しか装備されていない船舶への乗船では、通信士の海技免状を受験するのに必要な経歴にはならないということが分かった。それなら、そのまま乗船を続けても意味がないため、青森に入港した時に学校を通して会社に話をして退職した。

[採用試験を受ける]

その頃、幸運にも大手の船会社の採用方針が変わり、海技免状を持っていない者も採用することになった。これは自社保有の船舶で見習いをさせるということに方針変更した為で、その頃から船がどんどんと増えていき、乗組員が必要になった為であった。2通を持っていたら採用するということになり、郡山さんにも受験機会が与えられた。

当時の採用は4月期と10月期の年2回あり、7月末に採用試験のある10月期の採用に間に合い、郡山さんは大同海運株式会社を受験した。実際には仙台、詫間、熊本の各電波高校からそれぞれ5名、合計15名が受験予定であった採用試験に、割り込んで入れてもらったという。

採用試験は大同海運の本社のあった神戸で行われたため、郡山さんは前日の朝、列車で岩沼を出てその日の夕方に東京に着き、そのまま夜行に乗り換えて、翌朝神戸に着いた。試験とは言っても内容は面接だけであった。どちらかというと、入社試験に臨む受験者は学校からの推薦があるため、入社試験を課してふるいにかけるということではなく、念のために人物を確認するという意図が強かったようである。帰路も丸1日かけて岩沼まで帰った。

[就職する]

採用試験の結果は問題なく合格であったが、10月1日付けの採用だったため、郡山さんは、8月と9月の2ヶ月間、入社を待たねばならなかった。後で分かったことだが、郡山さんの他にももう1人、臨時で割り込んだ受験者がおり、結局15人採用の所、17人が入社した。この17人を見習いとして船に乗せ、半年の乗船経歴を持たせた後に、海技免状取得の国家試験を受けさせることになる。

1956年10月1日になり、大同海運の社員とはなったものの、郡山さんはそのまま自宅待機が命じられた。船員は、船に乗っていない時期は自宅で待機するのが普通であり、会社からの乗船指示の電報を待つ。電報が来れば、指定された港に向かって、指定された船に乗る。自宅待機の間ももちろん給与は支給されるが、いつ電報が来るか分からないので、いつでも連絡を取れる状況にしておくことが義務づけられている。会社に経費がかかるため独身寮などを用意して、そこに住ませておくことはほとんど無いという。

入社後1ヶ月半の間、自宅で待機することとなり、郡山さんが乗船を指示する電報を受け取ったのは、11月中旬であった。「結局、1ヶ月半くらい給料をもらって自宅で待機していましたが、田舎の人は事情が分かりませんから、あいつは仕事もせずに遊んでいると思われていたことでしょう」と話す。その電報には、11月17日に横浜港で乗船せよと書かれていた。

[貨物船に乗る]

1956年11月17日、郡山さんは大同海運に就職後、見習いとして初めて船に乗り込んだ。その船は北米航路に就航していた7000トンの貨物船で、ちょうど米国から日本に帰ってきたところであった。その船には3名の通信士が乗り込んでおり、それぞれ、通信長、2等通信士、3等通信士であった。見習いは3名の通信士のうちの誰かと一緒に無線室で勤務し、仕事を教えてもらうが、郡山さんは通信長に付いた。

横浜港を出航して神戸に入港すると、もう一人の見習いが乗船してきた。その見習いはたまたま3等通信士が学校の先輩であったため3等通信士に付いた。その結果、通信士3名と見習い2名の5名が乗っていたことになる。通信士の仕事は、4時間勤務して8時間休むというローテーションだったため、1人あたり1日2回、4時間ずつの勤務があった。これを3人で回すことによって、24時間体勢で通信室の稼働を可能にしていた。

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郡山さんが現役の頃、業務で使っていた電鍵。

見習いの期間は最低6ヶ月で、これは海技従事者国家試験受験のための乗船経歴として必要な期間であった。郡山さんは6ヶ月の乗船勤務を終えると再度自宅待機となり、国家試験が実施される時期まで待ち、宮城県塩竃市で受験した。「試験は割と簡単でした」と話すように、郡山さんは難なく国家試験に合格し、海技免状を取得した。

通信関係の海技免状には当時、甲種、乙種、丙種船舶通信士の3種類があり、所持している無線従事者の資格が第2級無線通信士(現第2級総合無線通信士)の場合は乙種しか受験することができなかったため、郡山さんは乙種を受験したのであった。1983年の船舶職員法の改正により、甲種船舶通信士の資格は現1級海技士(通信)、乙種は同2級、丙種は同3級と見なされるようになったため、当時の乙種船舶通信士は現在の2級海技士(通信)に相当する。