[3等通信士になる]

郡山さんは、乙種船舶通信士の海技免状を取得すると、見習いから3等通信士に昇格し、1957年からは外航航路での通信を任されることになる。しかし、1958年のある日、ニューヨーク航路に乗船中、通信長から「おまえは勉強が足りないから学校に行って勉強をし直せ」と言われた。それは、将来通信長になるには第1級無線通信士(以下1通)の資格が必要なため、勉強して1通を取得しろという意味合いであった。

業務命令を受けた郡山さんは1959年4月、母校である仙台電波高校の専攻科に入学する。しかしながら1年後の1960年3月に卒業するまでの間に1通は取得できなかった。ちょうどその年度に無線通信士の国家試験の制度が大きく変わり、問題もゴロっと変わってしまったため、過去問の勉強がほとんど役に立たなかったことも原因であった。「学校の先生も、国家試験対策として何を教えたらよいか、よく分からなかったかもしれませんね」と郡山さんは話す。

1年間の勉強の成果がないまま、郡山さんは会社に戻って乗船勤務を続けることになる。1通の資格は取得できなかったが、実際の勤務に大きな影響がある訳ではなく、まじめに勤務した結果、3、4年後には2等通信士に昇格した。余談ではあるが、郡山さんは、退職するまで一貫して、電信の送信には縦振電鍵を使用した。リタイアしてアマチュア無線しかやっていない現在でも使うのは縦振電鍵のみである。もちろん移動運用の時も縦振電鍵を持って行く。「昔少しエレキーを練習したことはありましたが、馴染めませんでした」と笑って話す。

[結婚する]

乗船勤務していないときは、岩沼の自宅で待機し、電報1本で乗船地に出向くという形態の勤務が続いた。これは郡山さんが例外と言うことではなく、船乗りは誰もそうであった。「ひどいときは、町に遊びに行く途中で、電報電話局員が電報を持って追いかけてきたこともありました」と話す。またある時はラジオ屋でアルバイトをしていたところ、父親が自転車に乗って大あわてで電報を持ってきた。その電報には、翌日神戸での乗船の指示が書かれていたため、その日に出発しないと間に合わないスケジュールであった。

1963年3月、25歳になった郡山さんは長崎在住の洋子さんと結婚する。船舶はだいたい半年に1度の割合でドックに入ったが、当時郡山さんが乗っていた船舶は長崎で造った船舶が多く、そのために長崎でドック入りすることが多かった。「長いときは半月くらいドックに入っていました」と話す。ドックに入っている時も通信士としての仕事は通常どおりにあったが、通信室で勤務中以外の時間は自由なため、町に遊びに行くことも多く、そのときに洋子さんと知り合ったのであった。

結婚式は長崎で挙げたため、郡山さんの親族は宮城県の岩沼から長崎に出てくる必要があった。当初、郡山さんの両親は距離が遠いので乗り気ではなく、郡山さんは「飛行機に乗せるから来てくれ」と頼んだという。両親は大阪までは列車を乗り継ぎ、大阪からはフレンドシップというプロペラ機に搭乗して、熊本経由で長崎まで来てくれた。「父親は、あれが最初で最後の飛行機への搭乗だったと思います」、「兄貴も来てくれる予定でしたが、3月だったため年度末にあたり、仕事が忙しくなって結局来られませんでした」と郡山さんは話す。

[長崎に転居]

結婚をきっかけに、郡山さんは岩沼から長崎に転居し、当初は洋子夫人の実家で暮らすことになる。もっとも1年の大半は乗船している郡山さんにとって、家にいる時間はそう多くはなかった。1964年になると、海運大合併(海運集約)があり、当時16社あった大手の船会社が6つのグループに集約された。それに伴い、郡山さんが勤務していた神戸の大同海運(株)は、東京の日東商船(株)と合併して、ジャパンライン(株)が誕生した。よって郡山さんの勤務先の名称がジャパンライン(株)に変更になった。

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洋子夫人と長女を通信室に招待。

1989年になるとジャパンライン(株)は、山下新日本汽船(株)と合併してナビックスライン(株)となり、さらにその後1999年、ナビックスライン(株)は、大阪商船三井船舶(株)と合併して、(株)商船三井となり現在に至っている。郡山さんは1992年、船員の定年である55歳で退職しているが、そのときの社名はナビックスライン(株)であった。

[第1級無線通信士を取得する]

1965年7月、会社から、1通の取得を命じられ、東京で講習会を受講することになった。この講習会は経歴者だけを対象としてものであった。7月から始まる講習会を受講するため、郡山さんは東京に6畳間のアパート借り、家族で転居した。給料は本給の7割が支給されたため、部屋代などはなんとかまかなえたという。

講習は半年以上に渡るものであったが、12月に運良く臨時試験があって、それを受験することができた。結果は合格であり、年内に合格通知を受け取ることができた。その頃、郡山さんは、乗船中にアマチュア無線を使って、洋子夫人と通信することができないかと考えていた。郡山さんは、プロの無線通信士の資格を持っているため、その免許をベースにアマチュア無線局を開設できたが、洋子夫人がアマチュア無線を行うには、まずはアマチュア無線技士の無線従事者免許を取得する必要があった。郡山さんは、アマチュア無線技士を取得するための教本を購入して、洋子夫人に免許の取得を勧めた。

話を戻し、郡山さんは1通国試の合格通知を年内に受け取ったところ、会社からすぐに船に乗ってくれと言われた。郡山さんは、「元々、講習会は3月までの予定だったので、正月くらいゆっくりさせてください」と訴え、それが認められ、その年の年末には長崎の自宅に戻って正月を迎えることができた。それでも、正月明けの1月7日には乗船することを余儀なくされたという。1通の免許証については、郡山さんが乗船後の1月13日付で自宅に届いた。1通を取得した後は、甲種船舶通信士の海技免状も取得し、後々通信長に昇格することになる。

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第1級無線通信士の無線従事者免許証。