[定期検査]

郡山さんが乗った船舶は、入社した頃は雑貨などを運ぶ貨物船が多かったが、後には原油や鉄鉱石、石炭などの運搬船に乗ることが多くなった。純客船は会社が所有していなかったため、乗った経験がない。ただし、客船でなくても12人までならお客を乗せて、運賃を徴収して運行することができたため、貨物船でもお客を乗せること自体は頻繁にあったという。「アメリカ航路ではよくお客様を乗せました。船は貨物船でも、お客様は運賃を払っていますので、乗組員とは部屋や食事が全然違い、待遇は良かったですよ」と話す。

郡山さんが若い頃は北米航路に乗ることが多く、パナマ運河などは何十回も通り、北米を経由してヨーロッパに行くこともあった。日本中心の航路なら、半年もしたら帰国できるが、外国同士を行き来する船だと1年以上も帰国できないことがある。時には2年くらい、アメリカとヨーロッパの行き来が続くこともあった。その様な時は長期間日本に帰ることができなかった。しかし長期間、乗組員が帰国できないと色々と問題も出るため、外国で交代させられることもあった。郡山さんも、ドバイ、オランダ、米国などまで飛行機で向かい、現地で交代したという。

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郡山さんも乗船したオイルタンカー・ジャパンリリィ。

無線局には定期検査があるが、船舶に設置されている無線局の定期検査については、電波監理局の職員が海外まで出張して検査してくれることもあり、必ずしも日本の港で検査を受ける必要はなかった。特に大西洋のカナリア諸島にあるラスパルマスには日本の漁船基地があり、ここには何十隻もの日本の漁船が入港するため、電監の職員が出張中であれば検査を受けることができた。

[通信業務]

船舶の通信業務は業務通信と定時通信がある。業務通信は主に電報の送受信で、通信相手は海岸局だった。日本から東に向かう航路の場合は、千葉県銚子市にあった銚子無線電報局、日本から西に向かう航路の場合は、長崎市にあった長崎無線電報局と通信を行った。その他、外国にも海岸局があり、サンフランシスコ海岸局やニューヨーク海岸局をよく使ったという。

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ジャパンリリィの通信室にて。

船に向けた電報は、海岸局が2時間おきに電報を預かっている船名を呼び出した。その呼び出しを受信し、もし自船宛の電報があれば、呼び出しが終わった後に海岸局と交信を行って電報を受け取った。船から電報を発信する場合は、いつ発信しても良く、海岸局のCQが終わったときに呼び出して交信を行い、電報を送った。ちなみに海岸局はいつでも電報を受け取れるように、24時間CQを出していた。

周波数は、船舶、海岸局の双方が日中の場合は16MHzとか22MHzといった高い周波数を使い、夜間は4MHz、6MHz、8MHzなどを使った。1980年頃まではすべて電信(CW)による通信であり、FAXや電話が使えるようになったのはその後の時代になる。電信の通信速度は和文が毎分60〜70字くらい、英文が毎分70〜80字くらいであった。このくらいの速度が一番効率よく通信できたからだった。出力はコンディションに応じて調整し、最大1kWまで使った。

次に定時通信だが、これは、同じ会社の船舶(社船)同士の通信で1日2回あり、このときはCQではなくCPを呼び出しに使い、自船の位置、目的地、向かっている方向などを社船間で交換した。なお国際遭難周波数(500kHz)は勤務中ずっと聞いておかなければならないことになっており、たとえ海岸局や社船との通信中でも別の受信機でワッチしていた。

[自宅との交信にトライ]

郡山さんは1968年に現住所である長崎市大宮町に自宅を新築した。その際、1m四方の穴を自力で掘り、町工場で溶接して作ってもらった10mのタワーも建てた。「穴を掘るのも大変でしたが、基礎を固めるのに使ったモルタルを練るのも大変でした。あまりに大変でしたので、適当に石を見つけてモルタルに放り込みました」と話す。そのタワーには、7MHzの逆V型ダイポールアンテナと50MHzの3エレ八木アンテナを設置した。50MHzの3エレは1、7エリア向け固定にした。「日本の西の端に住んでいますので、回す必要がなかったのです」と説明する。

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自宅に建柱したアンテナタワー。

郡山さんがアマチュア無線を始めた大きな目的は、船の上から留守宅の洋子夫人と直接通信することであった。米国への行き帰りの太平洋上でなんとか交信できないかと、日にち、時間、周波数を決めて何回かトライしたが、交信できなかった。業務無線では何も問題なく銚子無線電報局と交信できるのに、それに近い周波数帯を使ってもアマチュア無線では長崎の自宅と交信できない。「お互いに10W出力だったことが原因の1つだと思います」と郡山さんは話す。

[アマチュア無線を禁止される]

いつかはできると信じて、その後も暇を見つけては運用を行っていると、会社から、船舶におけるアマチュア無線禁止の通達が出た。「船舶に勝手に趣味のアンテナを張ってもらったら、問題を起こす可能性がある」という内容であった。せっかくTX-88Dを作って船上からの運用を始めたのに、郡山さんはがっくりきた。以後、洋子夫人との交信にトライすることもできなくなってしまい、だんだんと熱が冷めていった。「他の船会社ではアマチュア無線禁止など聞いたことがありませんので、うちだけだったと思います」と話す。

初めてアマチュア無線の電波を出してから1年間くらいは一生懸命運用を行ったが、船からのアマチュア無線が禁止され、乗船中は出られなくなってしまった。自宅からの運用はどうだったかというと、1年間土日祭日も関係なしでずっと働き、船から下りると最低25日の休暇がもらえたため、この休暇の時期に自宅から時々運用を行った。それでも1973年頃までは休暇毎に運用を行っていたが、1975年に家を建て替えたことをきっかけにタワーを撤去したため、一気にアクティビティが下がり、1981年の運用を最後に郡山さんは長いQRTに入る。