[移動運用]

郡山さんは、今後も引き続き国内各地への移動運用を続けていく計画である。まずは五島列島を再訪したいと考えている。平成の大合併でできた新上五島町、ならびに珍町である小値賀町のサービスが目的である。「まずは佐世保からフェリーで新上五島町に渡り、再度フェリーに乗って小値賀島に渡ろうと考えています」と話す。

北海道も再訪したいと話す。「昨年、JARL総会に参加するために釧路に行ってきました。前夜祭では、よく移動運用されているJA8JXC杉村さん、JA7DAY岩瀬さん、JA8AHA太田さんらとアイボールQSOし、さらに前夜祭終了後には、向かいの全日空ホテルのロビーで夜遅くまで情報交換しました。時間もあっという間に過ぎて、楽しいひとときでした」と話す。

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2009年5月、たんちょう釧路総会の帰り道に襟裳岬に立ち寄った。

かつては、遠隔地に行った際、無線はほどほどにして観光も行っていた。北海道の旭岳に行ったときは台風でロープウェイが動かなかったため一旦札幌に引き返して宿泊した。翌日また行ったらロープウェイは動いていて、乗ることができた。「丁度紅葉を見るのに良い時期で、駐車場が満車だったため、1キロぐらい離れたところに駐車して歩かざるを得ませんでしたが、さすがに行った価値はありました」と話す。

しかし、もう長い間名所旧跡は行ったことがないという。本格的にHFの移動運用を始めてからは、遠隔地に行っても無線運用ばかりになっている。道中も、洋子夫人が144MHzのFMや430MHzのFMで運用しており、ゆっくり景色を眺めている暇もない。地方ではV/UHFをワッチしている人が多いからだ。

[電信で喧嘩]

海外への移動運用や旅行の計画もない。洋子夫人からも行きたいとは言われないし、自分は通信士時代によく行ったため、「今さら行こうとは思わないからです」と説明する。「今思い出せば、米国の通信士は電信が大変上手でした。まるでパソコンで打っているような綺麗な符号でした」、「今から40年も前にパソコンで打っているとは考えられないため、当然手打ちだと思います。送信だけでなく、受信能力も卓越していました。とにかく上手かったですよ」と話す。

「逆に、電信が下手な国も多かったです。中米の某国、アジアの某国、オセアニアの某国など最悪でした。相手が本当に電報を受信してくれたのか心配でした」、「それに比べて、日本の海岸局である長崎無線電報局と銚子無線電報局は世界でも一流でした。もちろん設備も良かったと思いますが、オペレーターの技術も一流でした」と郡山さんは話す。

ある時、銚子無線電報局との意思疎通がうまくいかず喧嘩になったことがあった。喧嘩とは言っても、電波上での喧嘩であって、しかも和文モールスによる電信である。「なにをいうのか」などの文章を1文字ずつ送る必要があるので、相手と数十分間打ち合ったという。そして相手の名前を聞いたところ、「たかひら」と打ち返してきた。仙台電波高校専攻科で同級生だった高平さんであった。同級生と分かったので、最後は、「ああ高平か、もういいよ」という事になったと、郡山さんは笑って話す。

同級生とは言っても郡山さんは本科卒業後、3年間乗船した後に専攻科に入学したので、齢は郡山さんの方が3年上になるため、専攻科では同級生でも本科では3年先輩だった。高平さんの方も喧嘩の相手が先輩の郡山さんだと分かると、ああ先輩かということで、すぐに喧嘩は収まったという。当時、仙台電波高校専攻科から銚子無線電報局に就職する学生は多かった。

[縦ぶれ電鍵へのこだわり]

「最近コンテストはおもしろくなくなってきました」と郡山さんは話す。一番の理由として、入賞しないとJARLニュースにコールサインが掲載されなくなってしまったことを挙げる。その他には、コンピューターを使う局が増え、だんだん太刀打ちができなくなったことを挙げる。それでも郡山さんにはエレキーの導入予定すらない。「縦ぶれでのトンツーが好きだからです。手が動かなくなったらエレキーを使うかもしれませんけど、導入するには練習をしないと行けませんね」。

「昔、少し練習したことはありましたが、今エレキーを使うと、10分くらいたたくうちに何回か間違ってしまうでしょう」、「複式電鍵なら問題ありませんが、エレキーですと長点を出すところに間違って短点側の羽を押してしまうと、もう長点には直せないからです」と説明する。「しかし国内コンテストなら、まだまだ手打ちで大丈夫です」と続ける。

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自宅シャックで縦ぶれ電鍵を使って運用中の郡山さん。

[コンテスト失敗談]

コンテストを始めて間もない頃、KCJコンテストに参加して数局とナンバー交換したが、ログを提出していなかった。KCJのコンテストでは、交信相手がログを提出しないと得点にはならないので、郡山さんが交信した局は、すべて郡山さんとのQSOのポイントを失っていたことになる。「そのようなルールであることを知らなかったからなのですが、気の毒なことをしました」、と話す。ルールを知ってからは、たとえ数局とのナンバー交換でもログを提出する様にしている。

もちろん、その他のコンテストでもログは必ず提出する様にし、エントリーバンド以外でQSOした分もチェックログとして提出している。連載第8回にも書いたが、郡山さんは、コンテストにパソコンを導入しておらず、コンテスト中はすべて紙ログを使っている。ただしログを提出する際は、電子ログも併用しており、提出の際は紙ログの内容をすべてパソコンで電子化し、JARLのホームページにある「JARLコンテスト 電子ログ作成ページ」を利用して提出している。

オールJAコンテストなど、交信局数が多いコンテストではデュープチェックリスト、さらにはマルチチェックリストを作って対応しており、これらのコンテストでの紙ログの電子化には多大な時間がかかるが、「いまは仕事をしていませんので、これが私の仕事のようなものです」、「雨が降った日には畑にも行けませんから、朝からやっていますよ」と話す。

[晴耕雨トン]

郡山さんはかつて「晴耕雨トン」と自ら宣伝していたように、晴れの日は畑を耕し、雨の日はトンツーを行っていた。今でも琴海のセカンドシャックには、頻繁に通っている。セカンドシャックでは無線をやるより、どちらかというと畑仕事をやっている時間の方が長い。「琴海に行って、海と山を眺めながら良い空気を吸っているんです」と郡山さんは話す。しかし週末になればコンテストか夫婦で移動運用と、毎週忙しいハムライフを送っている。郡山さんのアクティビティは当分落ちそうも無い。 (完)

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郡山さんと移動運用車両。長崎空港にて。