[ラジオを知る]

松ヶ谷さんは、1936年、三重県津市で洋傘製造を手がけていた家に生まれた。5歳になった1941年12月8日、両親が「困ったことになった」という話をしていた。子供ながら心配になり、父親に「なんで?」と尋ねたところ、「ラジオが言っていたが、世の中これからおかしなことになる」と返答があった。当時の松ヶ谷家にラジオはなかったが、隣に住んでいた親戚の家にあったラジオで父親が、日本が米国に対して宣戦布告したことを聞いたらしい。松ヶ谷さんは、「ラジオって何」と訪ねたところ、父親は、「なんでも聞けるものだよ」と答えてくれ、ここで初めてラジオの存在を知った。

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松ヶ谷さんが生まれた「松賀屋傘店」

1943年4月、松ヶ谷さんは、近くの白塚小学校(当時は国民学校)に入学した。終戦が近くなると、津ではしばしば空襲警報が発令された。朝、学校へ登校していく途中で、通学路の脇にある家のラジオから、「東海軍管区情報・空襲警報発令」というのを聞いた。空襲警報が発令されると、その日は学校が休みになるため、通学途中で引き返してきたことを覚えている。

[望遠鏡とカメラ]

終戦直前、小学1、2年生のころ、すでに科学に興味を示していた松ヶ谷さんは、望遠鏡を自作した。正確には望遠鏡を発明した。たまたま、祖父の老眼鏡(凸レンズ)と、祖母の近視用眼鏡(凹レンズ)で遊んでいたところ、これらをうまく組み合わせると、遠くのものが大きく見えることを偶然にも発見したのだった。後で分かったことだが、ガリレオ式の望遠鏡の原理だった。もちろん、独力での発見で、本などを参考にしたのではなかったため、「衝撃的な発見だった」と当時の思い出を話す。

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自宅の庭で遊ぶ松ヶ谷さん

次に、カメラに興味を持った松ヶ谷さんは、ピンホールカメラを作ってみた。フイルムが入手できなかったため、一旦印画紙に露光し、白黒が逆のネガになった印画紙を、もう一度別の印画紙に写して写真にしたと言う。また、当時は現像液が簡単に手に入らなかったため、これも自分で作ろうと現像液の配合にも挑戦してみた。当時の松ヶ谷家には水道が無かったため、井戸水を使ってトライしてみたが、どうしても上手くいかなかった。井戸の場所が海に近く、そのため井戸水には少し塩分が混ざっていることが原因、ということが分かったのは、大人になってからのことだった。小学生だった松ヶ谷さんには、知るすべもなかった。

そのころすでに太陽黒点に興味を持っていた松ヶ谷さんは、自作のピンホールカメラを使って、太陽の撮影を何度も試みた。ピンホール部分の製作は、たばこの銀紙を何枚か重ね、それに縫い針で穴を空けた。そうすることにより、穴の直径が少しずつ異なるピンホールが、重ねた銀紙の枚数分だけできる。それを1枚ずつ取り替えながら実験を重ね、撮影に最適なピンホールの大きさを決めた。そして、ついに一度だけ太陽の像をハッキリと捉えることができたという。どちらかというと、松ヶ谷さんは、写真より機械の方に興味をもっていたようだ。

[電気パン焼き器]

終戦直後の小学3、4年生になると、松ヶ谷さんは電気に興味を示すようになり、電気工作をスタートしている。初めて作ったのは電気パン焼き器だった。これは科学雑誌を参考にして作った。まず10cm角の木箱を作り、箱の内側の両側に10cm四方の金属板を貼り付け、それを電極とした。この電極は缶詰の缶の平板部分を切り取って、叩いて伸ばした後、必要サイズに切り揃えたものだった。

その電極にAC100Vを接続した。電極間に水で溶いた小麦粉を置くと、その水分によって電気が流れ、パンが焼けるという仕組みだった。いいにおいがしてきてパンが焼けてくる頃には、電流が流れすぎて家の安全器のヒューズがよく飛んでしまった。まだ小学生だった松ヶ谷さんは、切れたヒューズは交換すれば良いことを知っていたが、交換用のヒューズが無かったため、一度、銅線で接続したことがあった。すると、今度は表の道路にあった電柱のヒューズが切れて、近所中が停電となってしまい、両親からひどく叱られたことを覚えている。このころから好奇心が強く何にでもチャレンジする少年だった。

[ラジオ作り]

小学4、5年生のころに初めて鉱石ラジオを作った。当時の鉱石検波器は直径7〜8mm、長さ3cmぐらいの絶縁物のパイプに方鉛鉱と思われる鉱石が入っていた。片方からコイルバネで押さえた構造で、バネを調節して感度の良いところを探るものだった。この頃のラジオの先生は、近くに住む親戚で、5、6歳年上のお兄さんだった。松ヶ谷さんは、この先生から部品を分けてもらったり、半田ごてを貸してもらったりしながら、鉱石ラジオの次は、先生が作った並四ラジオのコピーに挑戦した。

この時は、電源トランスも自分で作ったが、コアは以前にパン焼き器を作ったときと同様に、パイナップルの缶詰の缶の平板部分を切り取った後、叩いて伸ばし、はさみでカタチを整えて重ねた。裏と表にはニスを塗ってコアを作った。線材は、もらった中古のモーターを分解して、銅線を取り出して利用した。参考文献に従って1次側と2次側の巻線比どおりに作ったところ、そのトランスは正常に働いてラジオが鳴り、NHKを受信できた。「そのときの喜びは今でも鮮明に覚えている」と言う。

[短波との出会い]

ある日、並四ラジオが、何かの故障でたまたま同調周波数が大幅にズレ、ラジオから変な日本語が聞こえてきたことがあった。後で分かったことだが、それは米軍による日本向けの宣伝放送だった。意図せずに偶然受信してしまったのだが、それが松ヶ谷さんと短波との初めての出会いになった。

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松ヶ谷さんが作った5球スーパーラジオ

自作の並四ラジオでの受信に明け暮れていたある日、松ヶ谷さんの妹が「お兄ちゃん、ラジオが燃えているよ」と言ってきた。なんと自分の作ったラジオが火を噴いていた。トランスのレアショートなどが原因で発火したようだ。あやうく火事になる寸前で消し止めたが、両親からはこっぴどく怒られた。それが原因で、「しばらくラジオ作りをやめた時期があった」と笑いながら話す。

1949年、中学生になった松ヶ谷さんは、本格的なラジオ作りに挑戦した。当時の津では本格的なラジオを作るための部品が手に入らなかったため、名古屋市の大須まで部品を買いに出かけ、先生の指導を受けながら、5球スーパーを作った。この時は新品で購入したトランスを使用したと言う。