[2アマ試験を受験]

高校を卒業した1955年、松ヶ谷さんは、三重県庁にあった三重県教育委員会事務局に就職。この年、第2級アマチュア無線技士を受験するが、結果は不合格だった。これには理由があった。それ以前の国家試験は択一式で実施されており、CQ誌などに既出問題が載っていた。松ヶ谷さんは「受験にあたりそんなに勉強をした記憶はない」と言うが、既出問題にはひととおり目を通し、自信をつけて望んだ。しかし、この時から試験問題の出題形式が、択一式から記述式に予告無く変更され、松ヶ谷さんは度肝を抜かれた。「第1級と第2級の試験問題を間違って配布したのではないかと思った」と言う。

そのため、次回は記述式でもいけるよう勉強をして、1956年1月期の国家試験に望み、無事に合格した。なお、当時の第2級アマチュア無線技士の試験には、電気通信術の試験はなく、法規と無線工学の2科目だけだった。松ヶ谷さんは、ついに2月21日付で無線従事者免許証を手にした。

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左から、第2級アマチュア無線技士国家試験の受験票、合格証書、免許証

[JA2TY開局]

受験した時点で受信機はすでに自作のものが手元にあり、送信機も受験前からアイデアを温めていたため、無線従事者免許証を手にするとすぐに開局申請を行った。予備免許が下りると同時に、送信機作りに取りかかり無事に完成。試験電波の発射から工事落成届けの提出と順調に進み、6月16日に落成検査に合格、無線局免許状(呼出符号JA2TY)を手にした。

この年の4月、松ヶ谷さんは、国家公務員試験の受験資格を得るために、三重短大の夜間部に入学しており、昼間は教育委員会事務局に勤務、夜間は短大に通学という多忙な中で、アマチュア無線局の開局準備を進めていったことになる。

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開局時の無線局免許(承認)状。松ヶ谷さんは写真に撮影して残している。

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1956年開局当時のシャック

現在のアマチュア無線の開局は、メーカー製のトランシーバーを購入し、1950年代当時と比べると至って簡単になった開局申請書を管轄の総合通信局に提出すれば、いとも簡単に無線局免許状を手にすることができる。しかし、当時は開局申請書の記載内容は複雑で、かつ送受信機は基本的に自分で作らなければならなかった。それを考えると松ヶ谷さんのバイタリティには驚く。松ヶ谷さんも「青春のピークだった」と説明するが、その後、3年ほどの間に、第1級アマチュア無線技士、公務員試験、公認会計士、司法試験に、次々に挑戦していった。

[スプートニク1号を受信]

1957年10月5日土曜日、松ヶ谷さんは、教職員免許を取るため教育実習生として、ある高校の職員室にいた。昼のラジオニュースで、ソビエト連邦(現ロシアおよび周辺諸国)が前日の10月4日に世界最初の人工衛星の打ち上げに成功したことを報道していた。当時、天体観測にも凝っていた松ヶ谷さんは、「何か言い知れぬ感動と驚きを味わい、急いで帰りシャックに飛び込んだ」という。

まずは情報収集のため、自作の高1中2(高周波1段、中間周波2段増幅の当時ハム用として最高級の受信機)でモスクワ放送を受信すると、その人工衛星は「スプートニク1号」という名称で、しかも20.004MHzでビーコンを出しながら飛行している事を知った。

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当時の様子報じた10月8日付の中日新聞

これなら受信できそうだと、さっそくトライすることにした。ところが当時の受信機で待ち受け受信を行うためには、周波数を正確に合わせる必要がある。しかし現在の受信機のようにダイヤルを回すだけでは合わせられない。そこで松ヶ谷さんは、まず10MHzのJJYを聞いてデイップメーターでゼロビートをとり、その高調波をマーカーにして受信機を20MHzに合わせたと言う。「我ながらFBなアイデアを思いついたものだ」と当時を振り返る。

[6時間かけて受信に成功]

当時は、もちろんパソコンも無ければ軌道情報もない。そのため、肝心の「スプートニク1号」がいつ日本上空を通過するのが皆目見当もつかない。それでも、20.004MHzの受信を続けた。ノイズばかりを聞きながら実に6時間が経過した夕方の6時30分頃、ピーッ、ピーッ、ピーッ、と1秒に3回くらいの周期で長点を連続したシグナルが聞こえ、しかもそれは次第に強くなってきた。

さらに、その信号の周波数が少しずつ変化しているようで、ビートの音色が変わってきた。いくら自作の受信機といえ、6時間も電源を入れているのでそんなに動く筈はない。とっさに、「コレだ。ドップラー効果で周波数が変わっているんだ。スプートニク1号からのビーコンに間違いない」と確信した。ついに世界最初の人工衛星からの電波を受信した瞬間であった。その時の感動が、松ヶ谷さんのその後のハムライフにおける宇宙通信へのかかわりの原点となった。

さっそく受信レポートを送ろうと思ったが、送り先が分からない。そのため、以前に受信レポートを送ったことがあり、住所を知っていたモスクワ放送宛に送った。なお、当時は鉄のカーテンの時代だったため、英語で書いたレポートを送ることに躊躇があり、そのため松ヶ谷さんはドイツ語で受信レポートを書いたと言う。

モスクワ放送からは、ベリカードに同封してプラウダ(ロシア語の新聞)を送ってきてくれた。その新聞には、ソ連が翌月の11月3日にスプートニク2号の打ち上げに成功し、そのスプートニク2号には搭乗用のキャビンがあり、雌犬(ライカ)を乗せて打ち上げられた記事が載っていた。

後日談ではあるが、1963年6月、世界で初めて女性宇宙飛行士を乗せたボストーク6号がロシアから打ち上げられた。この宇宙飛行士はワレンチナ・テレシコワさんで、彼女のコールサインは「チャイカ」だった。ボストーク6号と地球上の基地との連絡周波数は、この時も20.004MHzが使われ、松ヶ谷さんは受信にトライした。そして見事、ボストーク6号からの電波を捉え、テレシコワ飛行士が送信(モードはAM)したあの有名なフレーズ「ヤーチャイカ」(こちらはチャイカ)の受信に成功している。

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松ヶ谷さんはそのプラウダを今でも大切に保存している。